2013年11月21日木曜日

ハードナッツ!

 橋本愛の風貌から、「お天気お姉さん」なみのクールビューティを主人公にしたものを期待していたのだけれど、その点では期待はずれ。やっぱり数学ができるクールビューティでは魅力がなく、副題にある「数学girl」としては、「数学はできて(好きで)、変だけど、やっぱりかわいいのよ」という方向のほうが収まりがいいということなのだろうか(以前にこのコラムの中の「理数系にナイーブという美徳」の項で似たようなことを書いたけど──最近訳した本には「数学は苦手であることが自慢になる唯一の科目だ」というようなくだりもあった)。

 ドラマが数学の世界から拾ってくる素材はおもしろいし、主人公の設定によっては、「Numb3rs」の向こうを張れるドラマになったかもしれないのに……もっともそれはこちらの勝手な期待。

 しかしこのキャラクター自体は変だ。ただ、いかにも数学者らしいと思わせるような「変」ではない。つまり、数学的な理屈が日常的な感覚に照らして変だから、その人が変に見えるのではなく、そもそも変な人が数学が好きだったというようなことになっている。変な人なのだから数学が好きでもおかしくないか……みたいな見せ方に見える(この、「数学的だから変」と「変だから数学的」が違うと思えるかどうかは、もしかしたら数学に向いているかどうかのチェックポイントかも;)。

 ともあれ、やっぱり数学や科学を人物像の中心に据えるなら、このキャラクターのような「変」な人間味であっても、人間味は「不純物」だと思う(現実の人間の話をしているわけではない。キャラクターとしての造形の話)。数学や科学の強みは、人間的な意味や都合を問わないところにある(得られた成果を人間的に使うということは人間世界にはあっても、当の数学や科学の本体はそれがなくても成立する部分にある)。それを人間味に埋没させたのでは、数学や科学をキャラクターに使う値打ちがないように思う。


 もちろん、私自身の好みの話ということで、悪しからず。

2013年11月14日木曜日

なるほど、しかし……

 リヨンの町のあちこちの建物にトロンプルイユの壁画が描かれているのをテレビで見てああいいなと思ったことがあるが、Illusion of the Week: Japanese Food-Chain Breaks the Curse of OCHOBO! という記事で紹介されてた例を見て、現実の町にとけこむという点では負けていないのではないかと思った。笑えるし。あいにく、ここに紹介されているチェーン店は近辺にはないようで、実物は見たことはない。

 でも、画面には「liberation」とあるが、本当にまだ解放されていなかったのだろうか。確かに大口を開けたくない状況はあるだろうから、逆に、それなら男とて同じではないか? 男用の包装紙を使っている男も(最後にちらっと)出ていたらどうなのだろう。私はもっとおもしろいように思うのだが。


 ちょっと気晴らしに見て回っていた中で見つけた小ネタでした。

2013年10月27日日曜日

「注目を集める」?

 ここのところアナウンサー(私がよく聞くのはNHK)がやたらと「注目を集める」と言っているのが気になる。いつも校正の方々から多々つっこみの入る身としては、他人様の言葉づかいをとやかく言うのは気が引けるけれど、とくに誰かがつい、というより、ニュース原稿や特集番組のナレーションでこの言いまわしを使うことが方針になっているみたいに、やたらと耳にする。

 いくつか辞書を見ても、「注目を浴びる」、「注目される」という用例はあるけれど、「注目を集める」の用例はまだ見ていない。「耳目を集める」、「関心を集める」はなじんでいるが、「注目を集める」は、「注ぐ」の部分が「集まる」に重なって、耳障りなのだろうと、自分では思う(映画の「舟を編む」で見た言葉を集める人々からすれば、これこそ用例のうちということになるのだろうけれど)。

 もっと言えば、この言い回しがやたらと使われることが気になるんだろうと思う。もともと「注目を集めて」いることを取り上げるのがニュースや特集番組だとすれば、それをわざわざ「注目を集めています」と言うのはくどいとか、逆に、自分が目をつけたことを「注目を集めています」と言って客観的なふうを装うという様子が鼻につくとか、そんな感じが伴うから、よけい、言葉としておかしいと感じてしまうような気がする。

 あらためてい言うと、振り返ってみれば、自分でもその種のことはやっているんだけれど、尽きせぬ自戒の種として、気になる(障る)ということで、悪しからず。

2013年9月25日水曜日

アイデアの敷居


 アシモフがファウンデーションの世界を知的生命は人類だけという設定にしたのは、異星人を入れると、人類が異星人をやっつけて支配するという話が求められるので、最初から人類しかいないことにしたという話を聞いて(直接見たのはStephen Webb, "Asimov’s humans-only galaxy"によるが、Wikipedeaにもそういう記述があるので、わりあい知られていることなのだろう)、なるほどと思った。小説なら、そういうふうに宇宙を組み立てることもありそう。そういう意味で自由は効く。でも、小説の構想を受け入れてもらうための敷居というのも、当然のことながらあるということ。この小説は、翻訳の仕事をしているときにもときどき遭遇するので気にはなっているのだけれど、人類だけの銀河なんて狭すぎないか? ということで、ちょっと敬遠していたのだが、そういう事情もあるんだなと思ったしだい(もっとも敬遠のいちばんの理由は、あまりに長大すぎてとてもフォローしきれないということだけれど)。

 背景事情はともかく、今は地球外生命探しがあたりまえみたいに行なわれているので、逆に地球人だけの宇宙は考えにくいというところもあるが、当然いるという思い込みもまた危なっかしいのかもしれない。あるところで「水を差す」ような存在がいてくれないと困るということだろう。何ごとも中庸は難しいけれど……そんなことを思いながら、リーディングリストをたどっていると、Matthew Francis, "Scientific grumpfiness and open-mindedness"という記事も目に入ってきて、やっぱりそういうことかと思う。科学の世界に定説を覆すような新しいものが現れるとしても、それは簡単に成り立つものではなくて、目新しさよりも、実際の証拠に照らしてどうかを確かめる、こうるさいチェックが肝心で、そのこうるささを偏狭と言われればそうだとしても、可能性ばかりを見て証拠に目を開こうとしなければ、それもまた偏狭で、現実の証拠に対してはopen-mindedでないと……というような話(粗い要約。悪しからず)。科学は可能性を広げるものでもあるけれど、制約するものでもある(そうでなければならない)と思う。

 学生に、「科学は正しい知識の集まりというのではなくて、まずカンのようなアイデアがあって、それを確かめるところで科学が成り立つような場合もある」というような話をすると、とたんに「科学は難しいと思っていたけど、思いつきでいいなら、案外敷居は低いかも」といった反応もけっこう出てくる。そうやって敷居を低く見てもらうことも大事かもしれないけれど、でもやっぱり「確かめる」のほうが肝心で、それは相当厳しい関門だよということは言わないといけないだろうと思う(関門は厳しいほうが、信頼性も上がるという面も含めて)。方便として「親しみやすさ」を強調することもあるが、その部分があたりまえになってしまうのは、何ごとにつけまずかろう。

 Webbの記事からFrancisの記事への行き当たり方が「おっ」と思ったのだけれど、書いてみると無理にこじつけたなという感じ。「おっ」と思うことはよくあるが、現実のチェックは厳しい。夢を語らないとつまらないが、夢のまんまでは筋の通らないあだしごと、ということで退散。

2013年8月27日火曜日

イプシロンの打ち上げ中止(2013/08/27)


 カウントダウンを最後までしてしまったのはさすがにかっこ悪いし、原因の究明もすんでいないところで外野から何かを言うのもどうかとは思うのだけれど、異常が検出されて自動停止したというのなら、システムが全体としてはうまく機能したということだと思う。

 たとえその「異常」という判断がまちがいで、調べてみると実は異常はなかったのだとしても(JAXAの記者会見では、そういうふうに言われていた)、異常(の可能性)を感じたらとりあえず止めるように作るというのは基本だと思う。異常(の可能性)があるのに、大丈夫だろうということにして進むのはまずいよというのは、私たちは(いやというほど)経験ずみのはずだ。緊急地震警報が誤報だったとか、イプシロンが実際には異常がないのに異常を示す信号があったために打ち上げを中止したとかのことを(実害もあるのだから、気にしないでいいとは言わないが)、「間違い」や「失敗」や「威信の失墜」や「経済的損失」や……とばかり考える方向に流れてしまうとしたら、そちらのほうがむしろ残念なことだ。

 何はともあれ、異常を示す信号に気づかず警報を出さないとか、異常に気づかず打ち上げて制御できなくなるとか、警報は出ていたけれど、打ち上げを見にきている子どもたちをがっかりさせたくなかったから無理して打ち上げたら……といった、システムの意図そのものを否定するような結果ではなくてよかったねと思う(異常が察知されていながら、カウントダウンの放送が進んでしまったというのは、あまりに直前すぎてとっさに事態がのみこめなかったということなのだろうとは思うが、事態がのみこめないのなら、それもまた異常の信号なのだから、「カウントダウンの放送をとっさに中止」できるシステムにしておくことも必要かもしれない──デモンストレーションもシステムのうちなのは確かだ)。

 もちろん、何であれそういう異常が起きてしまったことの原因を追究してクリアしなければ次へは進めないが、今回はシステムが未完成だったということがわかり、未完成のまま強行されずにすんだということで、システムはそうやって仕上がっていくものでしょう。外野から差し出口で恐縮ですが、かっこ悪い結果になったことは忘れずに、それでも萎縮したり逆に過信に走ったりせずに、なすべきことをなしてほしい(異常がないのに異常を示す信号が出ることがあるのだからということで、次は警報スイッチを切るというような「修正」はありませんように)。

2013年8月9日金曜日

理数系にナイーブという「美徳」


 Yes, T-Shirt Messages Matter, by Katie McKissick という記事を見た。女の子用のTシャツに「私の得意科目」と書いた一覧表がプリントされていて、「ショッピング」、「音楽」、「ダンス」という項目にチェックが入り、最後の「数学」の項目にはチェックが入っていない。その下に、「誰も完全じゃないわ」という一言が入っている……それを手がかりに、記事の筆者は、たかがTシャツのプリントと軽く見てはいけないと、Tシャツのメッセージの発信力を評価して、逆にこんなプリントはどう? という建設的な話に進む。

 でも私自身は最初のTシャツの話を引きずっていて、連想したのは、科学ネタのニュースで耳にするキャスターの(男女を問わず)、「難しくてよくわかりませんが……」の類のコメント。それは卑下というよりもむしろ、「私は科学のことがわかるようないやな奴ではありませんよ」というメッセージになっているような感じがする……その点で、先のTシャツのプリントと同じような構造になっているように思う。数学や科学が苦手であることは、少なくともそれがあたりまえ、さらにはその延長上で、(変な人間ではないという意味での)美徳とされている。

 そう言えば、映画『コンタクト』で、エイリアンの信号と思われるものを科学者が発見したことを大統領が発表するとき、(私にはよくわからないが)立派な科学スタッフがいてくれて安心だ、だから話はそちらに内容は任せる……といったことを言うシーンがあった。もちろん、よくわからないことをよくわからないまま何か言うより、ちゃんとわかっていると思われる担当者に語らせるという判断は正しいと思うが、これが外交問題や経済問題だった場合、大統領がこの話は自分の手に負えないと言ったらどうかと考えると、やはり科学なるものの位置づけがうかがえる。大統領が科学のことをよく知っているように見えたりすると、選挙でマイナスになりかねないのだ、きっと。フィクションとはいえ、そういう表現にリアリティがあると考えられているのにはちがいない。

 理数系にナイーブであることが好ましさ(親しみやすさ?)の一項目になっている。現実はそうだ。でも、そんな世の中で科学を志したい、わかりたいと思う人が増えると思いますか……(あるいは別に増えなくてもいいということなのだろうか)。わかれとか、わかったふりをしろと言うのではない。でも、個人的な趣味の発言ならともかく、公器で世の中に向かって何か言うのなら、わからなくていいとか、さらには、わからないでいるほうが好ましいことになるみたいなメッセージは送らないほうが、やっぱりいいと思うのだけれど。

 建設的なほうに向かわず恐縮です。

2013年8月8日木曜日

尋常でない事態には尋常の情報は役に立たない?


 ベンチャー企業に出資しようという場合には、尋常な分析は意味がないのだとか。今までとは違うことをしようとする企業が成功するかどうかは、そもそも今までの評価のしかたでは評価できないからだという(Amos Zeeberg, "The Marvelous, Bad Ideas That Are Worth $ Billions" が引くポール・グレアム)。ふむ。

 これに対して、科学的懐疑主義のモットー、「尋常ではない説が成り立つと言えるには、尋常ではない質の証拠が必要」というのもある。それまでに圧倒的な証拠で支持されている確立した体系を否定するようなことを言おうとすれば、それを上回る証拠が必要ということだ。私は基本的にこの考え方を支持している。

 懐疑主義のモットーは、「尋常ではない説」がありえないと言っているわけではない。圧倒的な証拠がないと成り立つとは言えないと言っているだけだ。ものすごい低い確率でも、「あり」かもしれない。「当たった」ベンチャー企業は、とてつもない利益をあげて(つまり圧倒的な証拠で)成り立つことを見せているわけで、懐疑主義の壁を突破したということだ。

 だから尋常でなければ何でもいいわけではないところが現実の(懐疑主義的な)厳しさだ。グレアムは尋常ではないことを企てる企業の中から成功するものだけを見抜くわけではない。ほとんどは失敗するものの中にあるわずかな「当たり」で全体としてプラスにしようとするだけだ。宝くじほど運任せではなく、不利でもないのだろうにしても。

 懐疑主義とベンチャー投資、一見すると正反対だけれど、実は土台にある思想というか原理には、そう変わりはない。尋常ではないことはめったにないのだ(トートロジーのほうに書いたほうがよかったかな)。ただ、圧倒的な証拠を見るまで保留にするか、中には圧倒的な証拠を出すものがあるとふんで、むしろ証拠がないことが尋常でないことがあることの指標と見て先物買いをするかという違いにすぎない……と言うほど小さい違いではないけれど、同じ認識からまったく違う判断(実践)が出てくるという話。

2013年7月18日木曜日

「地に足がついた」宇宙開発


 この何日かで、宇宙エレヴェーターは20年以内に実現する!や、無人の自己複製機能を備えた探査機が近傍の生命探しに行く計画という記事を見た。早急に火星に人を送るよりずっと現実的な(まだ計画・構想段階で、クリアすべき課題は多々あるとはいえ、それでも「地に足がついた」と言ってもいい)話だと思う。
 宇宙に乗り出すとなれば、当然どこかで足を浮かせなければならないとしても、理念的には蓄積、底上げといったことが必要だろう。拡張する領域の事前探査、資源を送り出すためのいろいろな意味で費用効果の高い方式の開発・実施、さらには出先での資源調達法の開発は不可欠で、しかもその足場を組むような準備作業のために、何十年、何百年……という時間がかかるだろう。近くの恒星へ探査機を送る計画では、アルファケンタウリまで40年という、信じがたいほどの短い時間での飛行を構想しているというが、到達した中継地点で自己複製して拡散していく構想本体は、数百年から数千年で何千、何万という探査機ができて銀河に広がることを考えているらしい。それがデータを送り返してくるのを探知して……となると、さらに時間がかかる。
 そういう規模の中で、それでも足下から始めるしかない。自分は結果を見ることができないことのために構想・計画することが、この方面の話には不可欠になってくる(なかなか死ななくなる人間は、結局それなりの成果を見てしまうようになるのかもしれないし)。
 もう一つ、飛び出すことができるとなると、着地することを忘れて飛び出してしまうことになりがちなので、気をつけましょう(ときどき、高いところから飛び出して飛んだと思ったとたん、しまったと思う夢を見る;)。

2013年7月4日木曜日

知っていることは知っている


 別の場所のトートロジーの話に入ることだけれど、そちらではすでに別の材料で同じようなことを書いているので、この際こっちで……
 少し前になるがこんな記事を見た。「ちゃんと(システマティックに)考える」と「直観的に(ヒューリスティックに)考える」の二通りの処理のしかたがあって、「自分が知っていること」と「知っていないとわからないと思うこと」との差が大きいと、ちゃんと考えざるをえないけれど、差がない(または小さい──要は知るべきことは自分はちゃんとわかっていると思っている)と、直感的な処理に走るのだとか。「直感的には」その通りだと思う(つまり私はこの問題についてよく知っていると思っているというわけだ)。人は知っていることは知っているし知らないことは知らない(知らないという事実も含め)。だから人は必ず「自分はすべてわかっている」(と思ってしまう)というお話。
 昔、打ち上げ直後のスペースシャトル・チャレンジャー号が人々の目の前で爆発した後、世論は計画続行、中止の二つに割れ、その論拠もいろいろ出ていたが、どちらの立場からも「彼らの死を無駄にしないために」という論拠が挙げられていたという記憶がある。もちろんこの件にかぎらず、いろんな大事件でこの種の立場の分かれ方は出てくるものだが、私はこのとき、人々の判断は演繹的なのではなく、まず正しいと思う結論があって、論拠はそれに合わされる(だから同じ「事実」が正反対の主張の論拠とされる)という現実を刻み込まれたし、結局トートロジーなどというものにひっかかる遠因になっているように思う(もちろん直感的に)。どんな事実を前にしても、その事実は自分の立場を補強するものとして解釈することができるので、人はいったんとった立場を容易には変えられない……
 ここで挙げた記事も、説得するという脈絡でこの主題が取り上げられていて、反対の立場の人の思い込みは強固なので、こちらの立場を(情緒に訴えて)述べるよりも、情報や知識の正確さに目を向けさせるようにするほうが効果的だという話になっている。もっと言うと、とはいえ自分の立場だって正しい絶対の保証はないのだし、またいくらちゃんと考えたって正しい結果になる保証もないのだから、結局のところ説得とは結果よりも過程が大事だという話になっている。とにかく(直感的な)思い込みからいったん抜けるルートに乗せるということに意味があるというわけ。
 人間の都合(立場)に左右されないような回路を確保しようとしているという意味で、科学的な話だと思う(私は科学の価値をそこに見ていて、科学のいろいろな方法や約束事もそのためのものだと思っている)。







2013年6月21日金曜日

ケプラーの転用

  ケプラーが故障して新たな系外惑星探査ができなくなったものの、そのケプラーで別の方法で惑星探査ができるかもというが出ている。その話を、その時点で可能なことは限られていても、それを開くことで次の扉も見えるという「隣接可能性」の考え方で説明しているもある。

 あの「はやぶさ」もそうだったのだろうし、さらにその前の「アポロ13号」もそうだったのだろうが、「故障した、おしまい」ではなく、故障した状態で次にできることを探すというのは、工夫のきわみだと思う。もともと、難しいこと/できないことをできるようにしたところに工夫があったのだけれど(それもまた隣接可能性に出番があっただろう)、できたことができなくなったところで、残った設備の使い方の方向をまた換えて……というのがもう一段のひねりになっている。そういう話も気をつけて集めてみたいような気がしてきた。

 惑星探査をはじめ、宇宙の探査技術最前線の話と、隣接可能性を含めた新しいアイデアの生まれ方の話、それぞれの拙訳がこの夏出る予定。よろしく。

2013年6月17日月曜日

「お天気お姉さん」が終わっていた


 最終回はもう見ていたけれど、習慣で今週分(もう先週)のビデオを見ようかと思ったところで、あらためてああ終わっていたのかと思ってちょっと残念。不満は残るけど、楽しみだったし、楽しめた。

 不満はと言えば、冒頭のナレーションに入る「世のため人のため」というのがギャグや一方的な思い入れではなかったというところ。お天気お姉さんには、とことん非人間的な存在であってほしかった(それを通せばこそ、人間の役にも立てるという描き方であってほしかった)。でも、それでは人間世界で放送するドラマにはならないのだろう。

 「非人間的」というと言葉は悪いけれど、私はそれを、前項でも便乗させてもらった夏目漱石の草枕に出てくる「非人情の世界」に重ねている(これだってそのまま読めば十分悪い意味にとられるのだろうけど)。要は、人間の都合や思惑を離れた世界にあるということ。「非人間的」という言葉が悪い意味になるのは、あくまで人間世界の中での話。

 私も人間世界に生きている以上、人間世界の価値を立ててそれに沿うことはせざるをえないし、人間世界では人間世界としての生き方があるとは思っているけれど(「人の世が住みにくいからとて越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」)、それはあくまで人間世界のことで、人間ぬきの(非人間/非人情)世界の理もあり、人でなしの国は住みにくくても、それでもなお、だからこそ見えるものもあって、それを少なくとも目の端には入れておかないといけないと思っているということ(実は人間世界もその世界の中にあるのだから)。

 そして、その人間の都合とは無関係な世界に、科学は(科学の成果を人間に合わせて使うために人間の風味を加える前のエッセンスの部分は)連なっていると思っている(草枕では芸術の出番になっているが)。お天気お姉さんが、周囲の都合や希望とは無関係に自然現象だけを読むことでむしろ価値を(それを目的としないでいることで、かえって)現していくところに科学を見たかったということで、悪しからず。
 

2013年6月8日土曜日

ランニングのルール


 川べりを走りながらこう考えた。知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくに人の世は住みにくい……(漱石先生の『草枕』)
 皇居ランでマナーやルール決定というニュース。走っている者としては他人事ではない。そういうことを決めなければならないほど状況はカオス的にひどいということなのだろうし、決めるとなれば、それはそれでいろいろと大変なことがあっただろうと推察するけれど、「ルール」として明文化されると、そのために逆に困ることもある。要するにお互いよけいに窮屈になるということだ。
 走る側としては歩行者への注文もあるが(こちらではまだ人は少ないとはいえ、それでも、おしゃべりに夢中でなかなか道をあけてくれない歩行者にちょっとすみませんと声をかけると、びっくりされて「危ない」と言われたり、迷惑そうな顔をされたりのことは何度かある)、大の大人がどすどす走れば、それ自体が凶器になりうるのだから、走る側に相応の遠慮がないとまずいのは当然のことだろう。ただ、走る側のルールができることで、歩くほうは周囲への注意を払わずに歩いてもよいということにはなりませんように、と祈るしかない。
 だから歩行者のルールも作れと言いたいのではない。ルールなど決めなくても、走ろうと歩こうと自転車だろうと、一列だろうと横に広がっていようと、「公の道を通行する以上、つねに周囲に注意して、他人の行く手をふさいだり、危険な目に遭ったり遭わせたりしないようにしなければならない」という、あたりまえのことが理解され、実行されればいいだけのことだったのだと思う(実はルールがあっても同じことなのだが、明示的なルールができたことによって、この暗黙の前提はかえって忘れられる/無視されるのではないかという心配が先に立つ──立法の趣旨は忘れられ、外形的な規定だけが一人歩きするのが世の常だ)。
 その当然の前提がみんなでいつもできれば、走るのも歩くのも、一列でも横に広がるのでも、応分に楽しくできると思うのに……一人一人が自分の利益を最大にしようとすると、結局「みんな」で損をすることになるという、囚人のジレンマかな。あるいはもっと基本的に、自分が不注意になっているときはそのことに気づけない(だから誰もが自分はいつも気をつけていると思っている)という「誤りのパラドックス」か──我が心ICにあらねば(高橋和巳+小田嶋隆)、愚痴も出るということで、悪しからず。

2013年5月31日金曜日

絵画鑑賞の科学


Behavioral and Brain Sciences という学術誌にこんな論文が出たらしい。アブストラクトだけ見た。


"science of art appreciation" というところがみそで、芸術とは何か、それを鑑賞するとはどういうことかという問題を科学は取り上げることができるということらしい。芸術を科学で量れるとひとまとめに言っているのではなく、しかじかの部分は量れるのではないかということだと思う。科学は万物に科学的に取り扱える部分を探し、それを取り上げて「量る」ものだ。

私は、自分ではまともに絵が描けない(下手くそ)。だから、そういう「理屈でわかる」部分がなかったら、私には絵を「わかる」ことはできなくなってしまう……などという個人の事情はさておき、絵を鑑賞することには、絵を実践することとは別の回路もあって、たぶんそれは、頭や理屈や仕組みで考えるというところにかかわっているのではないか。つまりはこういう対象に、心理学であれ認知科学であれ、科学の出番があるということ。

あいだははしょって(たぶん話の本体は「トートロジー」がらみのことだろう)、結局は、同じ絵を見ても(あるいは絵を見るという行為を見ても)、自分でも絵を描く人の見方もあるだろうし、そうでない人の見方もあるし、それぞれの中にも、背負っているものの違いがあるだろう。あたりまえのことなのだが、往々にして、「科学にはわかりっこない」みたいな感覚が顔を出してしまう。逆に、科学的に見ればこうなのだから、そういう見方には根拠があるとか、そうではない見方は迷信だみたいに思われることだってある。でも、どれが正しい見方かを競うこともないだろう。それより、自分にないものの見方があるから見える部分があるなら、それを代わりに見てもらって、情報として(できればそういう情報に対する鑑識眼ももって)共有するほうが、(お互い)見方が豊かになるということだと思うのだが……

望むらくは、自分でもどちらの見方もできるのがいちばんいいのだけれど、たとえば私には絵描きの感覚でものを考えることはできそうにないので、そこは絵を描く人の話を拝聴するしかないし、自分で実験を考えて行なう立場にもないから、そういうところからわかることについては科学者の教えてくれることに耳を傾けるしかない。

2013年5月24日金曜日

人間味


 怖い人、いやな奴に見えて、実はいい人みたいな描き方がどこにでも顔を出す定型のようになって、そのことがあまり快適ではないのだけれど、今シーズンの「ガリレオ」もそちらの類かなという感じ。科学の良さとか価値を、科学者の人間味にずらしてほしくないと願っているので、湯川先生には前シーズンのときのように、いやみな奴でいてほしい(吉高演じる岸谷さんにも、こういうキャラクターを登場させるのなら、そのポジションでいやな奴でいてほしかった)。

「いやな奴だけど、状況によってはその見解に耳を傾けなければならないことも多々ある」と思わせることが科学のスタンスとしては王道で、「科学っておもしろ~い」とか「科学って身近で役に立っているんだ」とか、「科学者も人間なんだ」とか、ましてや「科学者ってかわいい」とかでは、科学のほうへ人を振り向かせる分には必要かもしれないけれど、それで科学を、まずは離れるべき人間味(あるいは人間的な都合)のほうに取り込んでしまう(あるいはそちら側にあることを期待させる)だけのことになったのでは、本末転倒ではないかと心配になる。

「ガリレオ」というドラマがもともと、私が思うような科学の姿を伝えることを意図しているわけではないのだろうから(湯川先生はあくまで、人間世界の中で科学者という職業についている人間であって、科学の体現ではないのだろうから)、そんなことでドラマを評価するのは見当ちがいというのはわかっているけれど、こんなところを期待して見る者もいるということで……

 同時期に「お天気お姉さん」というのが出てきて、こちらはまだ非人間的な存在を通してくれているけれど、何やら、この人がこうなった事情みたいな人間味の部分もにおわせているようで、最後にはそちらへ行ってしまうのかなと半分あきらめつつ、でも「ガリレオ」もこれも見ている。

2013年5月17日金曜日

ケプラーが……


 ケプラー探査機が故障とのこと。当初予定の観測期間は終えかけていたので、観測成果について大損害ということはないと思うが、系外惑星の探査ではなかなかの活躍で、象徴的な存在だったという意味では、やはり残念(拙訳にはこの方面の話も多いので、そちらの面でも痛い;)。一方では、ケプラーが活躍したおかげで出番がなくなりそうだった計画もあったりするので、あらためてそういう計画が日の目を見るということもあるのかもしれない。

 系外惑星探査は、目に見える成果が地球型惑星の発見、あわよくば生命の発見ということになるので、そちらに引きつけて取り上げられるけれど、そうすんなりとそこへ進める話ではないのは、iPS細胞の応用と同じようなこと(でもそれを謳わないとなかなか精神的・経済的支持も集まらないという面でも似ているかもしれない)。先が長いだけに、ここは残念に思いつつも、永遠にもつわけではないケプラーばかりに依存しない探査の進行があることを(あせらずに)願う。

 先が長いということで言えば、ケプラーは予定期間終了目前だったとはいえ、資材の補給や修理が可能なら、もっと使えるわけで、むしろそれができないことのほうを残念に思うべきではないかと思う。

 火星へ行くという話があるけれど、それより宇宙に置いた施設を継続的に使えるような保守補給のシステムを作るほうが先なんじゃなかろうか。恒常的なステーションをだんだん地球から遠いところへ置いていって、ふだんは保守作業の拠点としつつ、実績を積みながら、火星へのベースキャンプとしても使えるようにして、それをだんだん広げた先に「火星」という当面のゴールを考えていいんじゃないかと思う(これができるには、文明のレベルがタイプIを超えてタイプIIへ進む途上にないといけないかも)──でもやっぱり、そういう地道な積み上げの方針では、なかなか支持が集まらないのだろう。

 宇宙はとてつもなく広い。だからものによっては1000年単位で構想し、進めなければならない話もあるだろうに(それでも宇宙的に見れば一瞬のこと)、せいぜい10年20年の単位でいきなり火星となるのが、まだ宇宙はよくわかっていないことを示しているように思う。


 

2013年5月8日水曜日

Nautilus


 たまたま行き当たったNautilus というオンラインの雑誌(英語、紙版もある模様)。Matter, Biology Numbers, Ideas, Culture, Connected というコンセプトで、毎号一つのテーマで関連しあう記事を集めるというもの。パイロット版と第1号が出たばかりのようだが、期待できそう。ネイチャー、ディスカバーなどの共同事業ということらしい(プレスリリース)。

 誌名のノーティラスは「オウムガイ」のことで、そこに科学、数学、神話という、「Matter, Biology, Numbers, Ideas, Culture, Connected」をさらにまとめるジャンルが象徴されているという。生物としてのオウムガイ、殻に体現される数理、ヴェルヌの小説に出てくるノーティラス号……というふうに。

 思い浮かぶ範囲では、フランスには前々から Alliage という、こちらは科学・技術・文化の融合を謳う不定期刊の雑誌があるが、こちらはちょっとハイブラウだしボリュームもあって、なかなか手を出しにくい。日本にも、東大の Synapse, Academic Grooveというプロジェクトがあって、その紙による広報誌が不定期刊で出ているが、こちらはあくまで活動のほうが本体。それからすると、Nautilusは、敷居もそれほど高くなさそうで、雑誌としても充実しているというところか。

 第1号はいきなり「人間の特別なところはどこか」という歴史的な大問題を取り上げている。霊長類学、ロボットあるいはAI(AE=artificial emotion?)、コペルニクス的宇宙、さらには仏教的人間観、等々といった項目が並んでいる。毎月一つのテーマで、毎週1章分ずつ出るとか……問題は読む時間。

 自分では、翻訳という形でしてきたこと、していくことが、この雑誌がしようとしていることと根っこでつながればと願っている(これほど明瞭なテーマで一つにまとまっているわけではないけれど)。ともあれ、日本語版ができたら(Wiredみたいに)翻訳してみたいと思うような雑誌。

2013年5月1日水曜日

入試問題に


 今年も2点を使ってもらったとのこと。そのうち一つはなんと数学とか。ある一節を抜き出して、論証が式で展開されている部分の一部を空欄にして、あいだを埋めさせるというもの。数学の論証を具体的な場面に置いて考えさせるという点でいいアイデアだと思うし、そんないいアイデアの材料として使われている分、冷や汗も出る。

 もう一つは現代文。オーソドックスな(本格的な?)読解問題に使われたのはもしかしたら初めて? 翻訳が日本語として成立していると認められているということならうれしいけれど、その反面、問題として使える程度には読みづらいということでもあろうから、「ご面倒をおかけします」といった感じ(私自身としては「読み応えがある」と思ってほしいところだけれど)。パラドックスがらみの素材が多いから、内容的には現代文には向いているし、使える部分も出てくるのだろう──それにしても翻訳にまで手を広げなければならないほど、素材が出つくしているのだろうか。

 使えるのなら使っていただけるとうれしいとはいえ、こうやって意外なところで見かけると、文字どおり身が引き締まる思いもします。

2013年4月14日日曜日

「舟を編む」を見た

 ちょっと楽しみにしていた映画。映画には出てこない、あるいは示唆されるだけの、こちらとしてはちょっと知りたくなるような進行もあるのだろうけれど(原作は読んでいない)、十分楽しかった。それと、音楽というかサウンドが少ない。あるところで、ああ音楽が流れていないんだと気づいたときに、それもちょっとうれしかった。さらに、パンフレットがよくできていた(高めだかったけど)。

 どんなに工夫をこらしても、言葉を言葉で定義することは、どこかで同語反復になるのだろう。外へ出て俯瞰しようとしても、やはり地を這っている。もちろん、語りえないことは語りようがないし(「定義」ではなく「語釈」と言われるところが、辞書らしさを表しているのかも)。できあがりは遅すぎて、できたとたん改訂を考えなければならない、要はそんな「まにあわない」作業の積み重ね。ダヴィンチの「何か完成しただろうか」という言葉が思い浮かぶ。ただ、それでも神は細部に宿る(場合によっては悪魔も)。だから「完成しただろうか」は嘆きとはかぎらない。

 映画を見るのには、それなりに時間がかかるので、なかなか見ようという気持ちになれないのがつらいところ。このあいだはたまたまテレビでやっていた「トイレット」の見始めたところのシーンのインパクトについ引き込まれて見てしまったし、これもいい映画だったが(もたいまさこの「クール」は本当にクールだった)、終わるともう午後三時。昼休みには長過ぎる……録画したものはろくに見ていないし。