2016年3月26日土曜日

「良くない言葉」を吐く人工知能

をめぐる記事がいくつか目に入る。たぶんおもしろがっているのだろう。星新一の「ボッコちゃん」は古典になり、MS-DOS時代には人工無能が評判になったように、この手のことは「ウケる」。こちらの言うことをほとんどおうむがえしにして答えているだけなのに、何か人間を相手にしているような感じがする。現代の人工知能は厖大なおうむがえし用データを使って、単純なおうむがえし以上のことに見えることをするが、人間のすることをしているという点では巨大なおうむがえしだ。人間が忘れていることまでおぼえているから、新しいことをしているような感じまでしてくるかもしれない。

 人工知能は人間のしていることをまねして学習するのだから、今までなかったものとして恐れることはない。恐れるべきは、それがまねするお手本である人間だ。人間がひどければひどい人工知能が生まれる。それで生じる不都合は、人工知能のせいではなく、人間自身のせい。アシモフのロボット三原則とか、映画「オートマタ」のプロトコル(規定)とか、人工知能/ロボットやその製作を規制するルールもあるが、人間の側にもお手本としてのプロトコル(子どもの前で汚い言葉は使わないとかの)が必要ということなのだろう。

 眺め渡していると、こんなところに出くわした。

「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。(『草枕』第二節)

確かに和歌が出てくるところでつい「おいおい」と思ってしまうが、それを「思いがけない」と思うのは、相手がそういう学習経験をしているはずがないと思っているからで、「こんな婆さん」だろうと何だろうと、この地の伝承世界で育てばそれに属する言葉は口をついて出る。逆にそういう言葉を通じて、「相手」の積んできた学習経験、ひいては「人柄」を推定する。それはどのみち、こちらの都合や思惑や予断に合わせてくれるわけではない。そういう相手としてまずは受け止め、必要なら、そういう相手とのつきあい方を考えるしかない。

 人工知能を作ったものは「神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である」(同、第一節)。「作る」に加えて「使う」も入れるべきだろうが、人工知能が人間に近くなればなるほど(そうすべきかどうかはまた別のお話)、人間世界であったことが起きてくる。人間に似すぎていて怖いというのもあるかもしれないけれど、その場合、怖さの元は相手よりもむしろこちらにある。良くない言葉を吐く人工知能は、人工知能が着々と成長していることの証なのだ。何せ子どもは汚い言葉を使いたがり、子どもの成長は速い。

 それにしても、前の投稿からあっというまに半年か……