2013年9月25日水曜日

アイデアの敷居


 アシモフがファウンデーションの世界を知的生命は人類だけという設定にしたのは、異星人を入れると、人類が異星人をやっつけて支配するという話が求められるので、最初から人類しかいないことにしたという話を聞いて(直接見たのはStephen Webb, "Asimov’s humans-only galaxy"によるが、Wikipedeaにもそういう記述があるので、わりあい知られていることなのだろう)、なるほどと思った。小説なら、そういうふうに宇宙を組み立てることもありそう。そういう意味で自由は効く。でも、小説の構想を受け入れてもらうための敷居というのも、当然のことながらあるということ。この小説は、翻訳の仕事をしているときにもときどき遭遇するので気にはなっているのだけれど、人類だけの銀河なんて狭すぎないか? ということで、ちょっと敬遠していたのだが、そういう事情もあるんだなと思ったしだい(もっとも敬遠のいちばんの理由は、あまりに長大すぎてとてもフォローしきれないということだけれど)。

 背景事情はともかく、今は地球外生命探しがあたりまえみたいに行なわれているので、逆に地球人だけの宇宙は考えにくいというところもあるが、当然いるという思い込みもまた危なっかしいのかもしれない。あるところで「水を差す」ような存在がいてくれないと困るということだろう。何ごとも中庸は難しいけれど……そんなことを思いながら、リーディングリストをたどっていると、Matthew Francis, "Scientific grumpfiness and open-mindedness"という記事も目に入ってきて、やっぱりそういうことかと思う。科学の世界に定説を覆すような新しいものが現れるとしても、それは簡単に成り立つものではなくて、目新しさよりも、実際の証拠に照らしてどうかを確かめる、こうるさいチェックが肝心で、そのこうるささを偏狭と言われればそうだとしても、可能性ばかりを見て証拠に目を開こうとしなければ、それもまた偏狭で、現実の証拠に対してはopen-mindedでないと……というような話(粗い要約。悪しからず)。科学は可能性を広げるものでもあるけれど、制約するものでもある(そうでなければならない)と思う。

 学生に、「科学は正しい知識の集まりというのではなくて、まずカンのようなアイデアがあって、それを確かめるところで科学が成り立つような場合もある」というような話をすると、とたんに「科学は難しいと思っていたけど、思いつきでいいなら、案外敷居は低いかも」といった反応もけっこう出てくる。そうやって敷居を低く見てもらうことも大事かもしれないけれど、でもやっぱり「確かめる」のほうが肝心で、それは相当厳しい関門だよということは言わないといけないだろうと思う(関門は厳しいほうが、信頼性も上がるという面も含めて)。方便として「親しみやすさ」を強調することもあるが、その部分があたりまえになってしまうのは、何ごとにつけまずかろう。

 Webbの記事からFrancisの記事への行き当たり方が「おっ」と思ったのだけれど、書いてみると無理にこじつけたなという感じ。「おっ」と思うことはよくあるが、現実のチェックは厳しい。夢を語らないとつまらないが、夢のまんまでは筋の通らないあだしごと、ということで退散。