2016年6月23日木曜日

分野を特化した機械翻訳

「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美さんが注文する。……「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、春風にそら解け繻子の銘は何と書いて見せる。女は笑いながら、「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象の出るように、丁寧にかいて下さい」「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」「御挨拶です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」(『草枕』第十三節)

自分の仕事をこんなことに喩えるのはおこがましいのだけれど、手順や規則どおりに整えられた翻訳を、さらっとかける「一筆がき」とすると、「それだけじゃ画にならない」部分を読み取って、それを言葉にするような翻訳にしたい……なんてことを思ったのは、

2020年には日本語機械翻訳を実用レベルへ--MS、bbタワー、豊橋技大が協業

というニュース(CNET Japan)を見たから。これは「日本語から他の言語への機械翻訳については精度が低い」という現状をもっとよくしようということらしい。そのために汎用的に使えるものを目指すのではなく、分野を特化させることで、分野ごとに対応するのだという。なるほど。現実的な進め方だと思う。

 ただ、別のところ(「よろづ翻訳」)でも(何度か)書いたことながら、人は往々にして、ある領域限定のことでも、それが汎用的に正しいと思ってしまうらしい。分野がいろいろあるから、分野間のずれは見えるだろうし、一つの分野限定のものが一気に汎用的な存在になるとは言えないが、分野間に完成の時間差があれば、先行したものが先にある程度の影響力を持ってしまっているかもしれない。それに、そうしてできる「機械翻訳語」総体ができていけば、広い範囲での機械翻訳限定語が汎用化するということは考えられる。使う側も、機械翻訳に乗りやすい日本語を使うようになるだろうし、そのうちそれが「普通の」日本語になるのだろう。(外国語から日本語の場合も含め)機械翻訳に合わない/出てこない言葉は使われなくなって淘汰される……

 まさしくそれが適応とか進化とかいうもので、これからの日本語はそういうふうに進展していくのだと思えばいいのかもしれない。機械翻訳をあたりまえに使わなければならない人々がどれだけいるかということにもよるだろうが、機械翻訳はさらさらっと、一筆がきのように、ある領域の範囲内でかけるところを、予想以上に(作る方からすれば予想どおりに)うまく、それらしくかいてみせる。また、そうなりやすい日本語が、最初は機械翻訳に喜ばれ、そのうち日本語を使う人に喜ばれるようになる。すると、外国語から日本語に翻訳するときにも、そうした日本語の方が「自然な」日本語に見えてきて、こちらもさらさらっと一筆がきのように決まるパターンが使われるようになる……だろうか。

 言葉の対応ということで言えばそうなのだろう。でも、それこそ汎用的なものが難しいことにかかわるのだろうけれど、中身の対応となると、たぶんそこからはみ出すものが多くなるだろう。私とて、相手方の中身をすべて掌握して、それを日本語にしてますなどとはとても言えないし、読み切れなかったところがあっても、それはなかったことにして、形式的な対応に落とし込むということは、正直言ってある。でも、どうせ完璧にはできないのだから求めないというのではなく、対応できるところを広げていこうという方向性は必要だろうと思う。機械であれ、人間であれ。

 私は機械の学習力はそれができるだけのものになりうると思っている。場合によっては「春風にそら解け繻子の銘は何」くらいのことを吐き出しても驚かない。むしろ、ある程度の機械翻訳に人間が慣れてしまうと、機械翻訳が多くの人がなじむ水準より「上」の水準の翻訳をしたとき、それを「誤り」と見て、「正解」に直そうとするのではないかという危惧さえする。

人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。(同)


機械(汽車)が人間の個性を押しつぶすと言えば、もはや紋切り型の文明批判だろうが、画工は「積み込まれる」と言うものの、人はやはり「乗る」というところにも着目しなければならない。機械翻訳であれ何であれ、文明の利器に乗り、それに合わせるように動くことで、それなりの利益を得る。そこは否定できない。ところがそのうえで、文明が柵を設けると同時に、逆に人間の方が文明に柵を設けることもあるだろう。文明に対して、人間が「これよりさきへは一歩もでてはならぬぞと威嚇かす」というわけだ。それが安全装置になっていることもあるのだし、闇雲に文明が進めばいいとも思わない。結局は機械は現実の人間のまねをするしかないし、文明も現実の人間が作る範囲内にしかないだろう。けれど/だから……というわけで、とかくに(機械には?)人の世は住みにくい。