2015年10月30日金曜日

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて

 前項で草枕のこの一節を引いたけれど、よく考えてみると、これは、むしろ、乗算に交換則が成り立つという性質を読み取った先に開ける世界だなと思う。六つでひとまとまりのものが四つと考えるのは、数学を意味論で考えるという、純粋数学者からすれば「邪道」と言われることなんだろうなと思う。私にとって数学がわかるというのは、どこまでも意味論的な理解がついてまわる(その先の抽象的な世界がちらりと見えたときには、それはそれでうれしいのだけれど)。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。(『草枕』第一節 )

前にも引いたことがあるところだけれど、これは煩いを引き抜く前の世界だ。高度な数学は、そこから煩い(意味論など)を引き抜いて、美しい詩や画を作る。

 騒ぎは「サイエンティフィク・アメリカン」のブログ(http://blogs.scientificamerican.com/roots-of-unity/teaching-the-controversy-is-5-3-five-3s-or-three-5s/)にも出てきて、こちらは数学者が数学者的に5+5+5でも、3+3+3+3+3でもいい、4行6列でも、6行4列でもかまわないという方に寄った(というより、区別しなければいけないと言っている方の論拠があやしいという)立場を述べていた。数学者による数学の世界から見ればそうだろうなとは思う。私にとっておもしろかった(ありがたかった)のは、その中で、4行6列と6行4列は同じであることを、幼いエレンバーグも見て取ったという取り上げ方で、エレンバーグの本にも言及されていたところ(本では8×6 = 6×8)。

 でもだからといって、そんな子どもでもわかることなんだから、4×6と6×4は同じでいいというふうにはならないと思う(上記の筆者も単純にそう言っているわけではない)。エレンバーグはその関係を、かけ算の仕組みを自分で読み取って発見しているのであって、最初からそう習っているからそれでいいと思ったわけではない。4×6 = 6×4というのは、4+6 = 6+4ほど自明ではなく*、違うことを言っているようなのに、やはり計算としては等しいと言ってかまわないということを発見している。あえて言うなら、「意味論的な違い」と「抽象的な計算法則として一致すること」をそれぞれに認識し、両方を納得したのだと思う。それは私の算数体験とも合っていて、私はこの話にはそういう方向から共感した(私の場合、残念ながら自分で発見したわけではなかったけれど、何十年たってもこういうことを考えて喜んでいられるのだから、幸いな経験はしたのだと思う)。

 あれこれ考えたり読んだりしてみて、さらに言うなら、そもそも式を使う段階で、意味論から抜けつつあるということだという考え方もできる(メイザー『数学記号の誕生』という拙訳もよろしく)。単純に答えが合っているからいいではない話で言えば、小学校の算数を、言葉(意味論)寄りで考えるか、式操作(記号論)寄りで考えるかという路線の違いということなのだろう。

 エレンバーグは数学といっても、初歩/高度、浅い/深いの2×2のマトリックスがあって、学校で誰もが教わるのは、初歩/浅いの部分で、そこから進路によって高度/浅いの部分へ進み、プロの数学者は高度/深いの部分を仕事にするというようなことを言っている。で、その「データを正しく……」という著書では、触れられることが少ない「初歩/深い」の部分を取り上げるという。エレンバーグ少年の4×6 = 6×4の発見は、この「初歩/深い」の部分にある話だと思う。とすると、意味論か記号論かは、初歩/深いのところまで行くか、初歩/浅いだけを教えればいいとするかということかもしれない。深いところがわからないからだめとも言えない(だからくだんの先生も、「減点」にとどめていて、それは適切な対応だと思う)。また、身も蓋もないことを言えば、教えたからと言って全員の身につくわけではないのだから(逆に、「浅い」だけでも、できる子は「高度」まで進めるのだから)、細かいことは言わない方が、嫌われないという意味で、お互いハッピーなのだろう。

 それでも、考え方の筋道が理解できていないのなら(理解するために計算もできなければいけないのだけれど)、結果として答えが合っていたとしても、それはまぐれかもしれないという疑念がつきまとう。どっちでもいいよ、合ってるからマルでは、筋道なんか理解しなくてもいいというメッセージにならないか? その結果、「ありえない」答えが出ても(エレンバーグの本に出て来る「水の重さは-4グラム」)、自分ではそれが間違いだと気づけない、あるいはどこが間違っているか考えられない、数学嫌いの少年少女ができてしまう(間違うことよりこの点の方が重大)……それはやっぱりまずいのではないかと思う。数学は先のマトリックスのどこにあろうと、考え方の筋道のことだ。高度になるとは、前提を明らかにして筋道を正しくすれば、こんなことまでできるということだが、土台は筋道。


 そういうことを「減点」という形で身につけさせることができるかどうかという方法の問題(それもまた「住みにくき煩い」)も生じるが、願わくば、教える側も、そういう意識をもって教えてほしい。「正解」がこうだと言われているからそれを教えるというのでは、「どっちだっていいじゃん」と変わらない。正直、その点については、いささかの懸念なしとはしない。まして、このことだけをちゃんとすれば、すべてうまく行くという話でもない。生徒も教師も親もぜんぶひっくるめて、人々の頭の中を変えるレベルの話になってしまう(下手をすると、みんなの考える様式を「正解」にそろえて同じにするという話にもなりかねない)。一連の侃々諤々は、まさしくそこが難しいということの表れでもある……くだんの先生はひどい先生ではないし、それを教えることがひどい教育だとも思わない。でも、詩や画はこの世の外にあればこそ美しく、それは誰にもわかることではないのだから(決してどうでもいいことだからではない)、この世の外のことを理解しないからといって減点はできないということなのか知らん。それは現実として受け入れざるをえないのかもしれないが……とかくに人の世は住みにくい。

* 足し算のことまで考えると、言葉の上ではまたさらにややこしいことになるだろうが、ここでは単純に「4と6」は「6と4」と同じと言っていいが、「4の6倍」と「6の4倍」は、この水準で違うと言っておく。さらに進めば、「4の3乗」は「3の4乗」とは違うという、逆にわかりやすい(でも数学が苦手な人はよく混同する)話になる。かけ算は明らかに同じとも明らかに違うとも言えない境目にあるということらしい。

2015年10月29日木曜日

4×6 = 6×4

 前項の「答案と採点」は反響を呼んでいるらしく(昨日チェックしたから、私のFlipboardに似たような話が表示される確率が高くなっただけ?)、他にも同類の記事が出て来たので続きを。

 実は、前項の問題の他に、4×6を何行何列で表すかを図示するという問題があって、くだんの生徒(小3)は、1行4個を6行書いて、減点になっていた。「正解」は、1行6個を4行だという。こちらは私としても肩を持ちにくい。あらかじめ、行列の定義(この脈絡でなら、横並びが行で、それが何行あるかと見る)を明瞭にしておく必要があり*、それはいくらなんでも小学校3年生に求めるものじゃないと思う(横書き文化では縦でひとまとまりという考え方はないということかもしれないが)。教師のほうも、何かの指示やマニュアルに従っているだけで、本気で新方式の考え方が大事だと思ってはいなかったりすると、ちょっと怖い。

 この問題で求められるのは、英語式では6個のまとまりが4個という認識なのだから、何行何列かではなく、縦に6個をひとまとまりにしていることが明らかなら、それを4「列」並べていてもOKと考えるべきだと思う。件の生徒の図解は単位となるまとまりが不明瞭なので、そこを問うて減点というのはありだろう(子どもにそんな細かいことを求めることが数学嫌いを生むというのは考えられなくはないけど、旧式の「気にしない」方式で数学好きが順調に増えていたかというと、それもまた疑問だと思う……こうした問題に正解を出した子も、結局、ただ何となく合っているだけだったりすると、これまた辛いし)。

 いずれにせよ、この評価とその背景にある新しい数学教育には「非難ごうごう」というのが実際のもよう。新しく見た記事には、「5+5+5が文句なく認められることは小学校を出ていれば誰でも知っている」という、もっともな? いや、むちゃくちゃな「論拠」まであった(http://www.westernjournalism.com/parents-see-what-got-marked-wrong-on-math-quiz-unleash-fury-on-common-core/)。アメリカも昔から全体としての数学力が心配されている国だったと思うが……

 とはいえ、ちゃんとしたことを教えても(ちゃんとしたことをちゃんと教えてほしい)、ちゃんと受け止めてもらえなければ理解の水準が上がらないのは確か。「とかくに人の世は住みにくい」。でも、「住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」。数学も「住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写す」詩、画なんだけどな。ありがたい世界に見えない、あるいは数学が住みにくき世の住みにくき煩いになっているのがつらいところ。


* 原語では行列(matrix)ではなく、配列(array)となっていたので、そこらへんは微妙。

2015年10月28日水曜日

3×5 = 5×3

だからどちらでもいいじゃんという、バツをつけられた子やその親や「世論」と学校の(数学の)先生との対立というのは、英語圏ではどうなるだろう、もしあるとしたら、式は逆になっているはずだと思っていたけど、その例が目に入ってきた(Teacher's answer to Common Core math problem has parents steaming=http://www.sheknows.com/parenting/articles/1100469/common-core-math-problem)。以前に別のブログの「a×b=b×a」という項でも書いたことだけど、せっかく記事を見たので、こちらの話としてあらためて。

 この記事では、むしろ最近「これは違う」と教えるようになっているということだから、かつてはどちらでもよいということだったらしい。ほら見ろ、とどちら側からでも言えるけど。

 この記事で言われているのは、ある小学生の算数のテストの答案で、5×3を足し算の形にして計算しなさいという問題に、この子は「5+5+5=15」としているのに対して、先生は、これは「3+3+3+3+3」だとして減点している。その答案用紙の写真に「ひどい教師だ」というコメントがついたツイッターの投稿を元に、今の算数教育のこのことについての考え方を紹介している(「壊れていないものを直すな」という諺でしめくくられているところを見ると、やっぱり批判的なんだろう)。

 あらためて言うと、英語では、5×3は「five times three」と言うが、これは3の5倍であって、5の3倍ではない(りんごを一人が3個ずつ持っていて、5人いると全部で何個? の「正解」ということ)。日本語では、3×5(3の5倍)と言うところを、英語ではこう表現するということであって、どちらでもいいからそう書くという話ではない……でもやっぱりそういう考え方は、世論としては分が悪いということなのだろう(算数どころか、英語の時間にも「どちらでもいいじゃん」の声が聞こえてきそう)。

 それでも私は3×5と5×3は「意味が違う」と考える。数の計算として交換則が成り立つから、それを利用してプログラムを簡単にするといったことは考えてもいいが、それは乗算の仕組みを理解した上での乗算という演算の性質を調べるときに見えてくることで、最初から前提にしておいて、だから計算するときはどちらでもいいんだというのは、要するに答えさえ合えばいいということでしかない。計算はできるけど、数学はわかっていない。

 上の記事では、だからといって、わざわざ話をややこしくして数学嫌いを増やすことはないということなのだろうし、原理原則を通せば嫌われるのはまさしく「知に働けば角が立つ」だ。でも、「情に棹させば流され」もする。

 結局のところ、それこそ「トートロジー」向きの話だけれど、数学は数学がわかる人にわかるものである……ひとまず3×5と5×3は違うということを理解するのがある意味、数学を理解するということで、結果が同じならどちらでもいい、細かいことで目くじらを立てることはないというのは数学を理解していないということなのだ。世論はもちろん、そんなわかりにくい理屈を理解しなくても、答えが合っているならいいとせよ、の側にある。しかしそれは世間がいかに数学を理解しないかということだ。

 理数系離れはまずいというけれど、理数系から離れていない世の中とは、たとえていえば、3×5と5×3は違うという理屈をあたりまえにとる(そのうえで乗算には交換則がなりたつことを理解する)人が多い世の中だと思う*。理数系的な考え方をめんどう、わかりにくい、だからどうでもいいことにしようと言いつつ、理数系離れを心配するとすれば(世論は本当にそれを心配しているのか知らんとも思うけれど))、それは矛盾した話だというわけで、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。


* 私はそう思うけれど、世間的にはむしろ、理屈はわからなくても、計算して「正解」を出せる奴を増やせということなのだろう。でもそれって、危なくないか? エレンバーグ『データを正しく見るための数学的思考』(日経BP社)という拙訳もあるので、よろしく。

2015年10月15日木曜日

独創性賛……

 今年は夏の終わりを意識する暇もなく秋に突入し、相も変わらぬノーベル賞騒ぎが少し静まったところ。相も変わらぬ中に「独創性」という主題があって、受賞者の個性的なところを取り出し、型にはまらぬ個性を大事にしましょうということになる。もちろん独創性や個性は大事でしょう。せっかくある独創性や個性なら、それをつぶさないようにしてほしい。でも、その独創性とか個性とかは、標準や常識や型や一般に反することをもって、教育から標準や常識や型や一般をなくせばいいというふうに傾くのは剣呑。受賞者は人まねをしていてはだめというけれど、何が人まねで、何が人まねでないかを知るには、人がしていることを承知していないといけない。

一層(いっそ)の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫をしたものだろうと、一心に池の面を見詰める。
──『草枕』第十節

一興は楽しいけれど、一興はその場かぎりのもの、そこに何らかの恒常的な意味(「画になっている」=広くても狭くても、何らかの様式としての価値)が成り立つには、お手本をふまえた工夫が要る(「一心に池の面を見詰める」)。お手本を見る力こそ養ってほしい。

 大昔、どうすれば国語ができるようになりますかと聞かれ、何かのコラムなど、短い文章でいいから、いろんな文章を一編まるごと写すというのを続けなさいと答えたことがある。写すんですか? 要約じゃだめなんですか? と言うので、短い文章を要約したってしょうがないでしょう、一息の文章をまるごと写すから、文章がつかめるし、書けるようにもなるんだと答えると、写すなんて人まねはいやだと応じられた。逆に、テキストを丁寧にノートに写している生徒もいて、それでちゃんとできるかと言えばそうとは限らないのも確か。写すことの意味を納得してないと、それこそ型に合わせてはまるだけで(あるいはただの苦痛だけで)、型を理解することにはならない。

 だからこそ学校は、きちんと広く型を教え、本人がそれに照らして自分の個性や独創性の部分を発見する「鏡」になって(鏡を提供して)ほしい。型にはめるためではなく、型の向こうにあるものが見えるようにするために。個性が大事だからと、たとえば早くから得意科目ばかりを選択させたのでは、たいてい、苦手なことを選ばないというだけのことになって、単なる偏食に終わるものだろう。陳腐なたとえながら、基礎となる栄養はまんべんなくとらないと、足りている栄養も、足りない栄養にひっぱられて使えないことになる。それで嫌いなものも食べられるようになるわけではないとしても、やっぱりそれは言い続けないと、と思う。

余のごときは、探偵に屁の数を勘定される間は、とうてい画家にはなれない。画架に向う事は出来る。小手板(こていた)を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色のなかに五尺の痩躯を埋めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界に入れば美の天下はわが有に帰する。……余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画もかかない。絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤(わら)うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
──『草枕』第十二節

名画をかいた人は独創的で、世間や常識や型にとらわれないのかもしれない。今は。でも、だからずっとそういう生き方をしてきた、あるいはそれができたと思い、みんなが若いときからそうすればいい、みんなそうさせればいいというわけにはいかないだろう。結果はいろいろなことの結果であって(場合によっては「探偵に屁の数を勘定される」[いわば型からはずれたところをチェックされる]こともあれば、そこから逃れる手間をかけなければならないこともあるだろう。何やかや、一本道ではなかったはずだ。すでに何かを得たのではなく、これから何かを得る人には、何がどうなるかわからないから、先へ進む手がかりとして、型として取り出せるお手本をよく見る必要がある(結果論的な成功例を表面的に「独創性」のお手本にするのではなく)。

 結局、個性とか独創性は本人のもので、学校で、あるいは人から教わるものではない。学校が本物の個性や独創性に気づかずそれをつぶすというのはあってほしくないけれど、個性や独創性が大事だからと好き勝手を放置しても、ほとんどはでたらめが増えるだけだろう(ごく一部の「当たり」が出てきたら、自由な教育のおかげとかなんとかになるのかもしれないが)。何も考えずにひたすらでたらめをしても、長いことやっていれば、自ずと「空虚な中心」という形でその人らしさが見えてきたりすることもあるから、それを待つ余裕があるなら、それこそそれもまた一興かもしれないが──これまた必ず得られるともかぎらないし、得られた空虚な中心がおもしろいものである保証もない……

 でも、いちばんやっかいなのは、たとえばこのようなどうなるかわからないものを「独創性」といった言葉で表さざるをえないことかもしれない。独創性と言えばそれだ何かを捉えたように思うけど、考えてみるとこれは、要するに「成功した結果をもたらしたよくわからない原因」の名ではないか。求めるものの正体がわからないというのは、やはり「空虚な中心」なのかもしれない。


 いいお手本に会えればいいけれど。それにやはり、会えれば必ずうまくいくというわけでもないけれど。とかくこの世はすみにくい(し、わかりにくい)。