2019年10月5日土曜日

簡潔な文章

「日本代表、サモア戦で8強進出決定の可能性なくなる」という見出しを見た(日刊スポーツ2019/10/3)。何の間違いもない、ちゃんとした日本語の、見出しにはよくある類の短文だ。でも、何かおかしい。

日付も重要で、この時点では日本対サモア戦はまだ行なわれていない。だから当然未来の話だと、もののわかった人は読みとるのだろうし、もちろん書く側もそう思うのだろう。でも、私は一瞬、「サモア戦は終わったんだっけ」と思い、「その結果日本の8強進出はなくなった」んだと読んでしまう。

未来の話だという前提に立っても、「サモア戦の結果しだいでは、8強進出はなくなる」という意味にとれる。サモア戦で負けたとしても、その時点で2勝1敗で、もちろん確実に8強進出というわけにはいかないだろうが、「可能性がなくなる」ということはないだろうに……と思う。どういうことか──そういうふうにあれこれ思わせて本文を読ませるという意図でこうしたというのなら、見事ということにもなる見出しだ。

そうなると本文を読まざるをえない。読んでみるとこの文には第三の意味がありうることがわかった。要するに、「サモア戦で8強進出を決める」可能性がなくなったということだった。サモア戦に勝って3勝になっても、それだけではまだ確定はしないということ。振り返ってみれば、確かにこの見出しはそういうふうに解釈できる。間違ってはいない。けれども、この見出しが意図してのことかどうかはさておいても、そこには微妙な違いどころではない何通りかの意味が生まれてしまう。書き手は往々にして、自分の書く文を自分の意図だけで読んでしまい、そうとしか読めないという落とし穴にはまる。逆に、この見出しを一読してこの第三の意味に取れるとしたら、本文に書かれたようなことをすでに考えていて、そのことを了解している人に限られるのではないか? つまり、本文がわかっているから見出しもわかる。

一般には簡潔な文(あるいはその積み重ねの文章)が求められる。長い文は一般にそもそも読んでもらえない。頭から読み進めていくとちゃんと意味は通じていたとしても、読んでもらえないからにはその意味の通じようがないので、長いということじたいが「読みにくい」のだ(長い筋の通った文を読み通し、その意が読み取れて、逆にその緻密な構成に感嘆してしまうような長い文やその積み重ねの文章もあるのだが)。文は簡潔に読みやすく。それが一般則だ。

できることなら頭から読んでいくとそのまま意味(文章を把握するための情報内容)が通じる(定まる)のが望ましい。文章まるごとがそうとはいかなくても、全体を把握するための個々の文や段落単位では。文章の頭にある、短い見出しから本文の内容が推測されるどころか、本文まで読んでやっと見出しの意味が定まるなんて、文章としてはとんでもない話ではないか。それは見出しの宿命みたいなものだし、それもまた(ちょっとおもしろい)言語ゲームだとはいえ、ちょっと面倒くさい。

逆に、読み進めてすんなり意味が定まるようにするためには、言葉を足さざるをえないことが多い。簡潔に読みやすくしようとした文が長くなり、それが曲折にもなるだろうし、結果として、読みにくいと感じられてしまう。もちろん見出しとしては使えない。

簡にして要を得るというのは理想だが、簡にすぎると解釈の余地が多すぎて意味が定まらない(あえて定めないというのは言語ゲームの指し方としてありうるにしても)。定めるために要を補うと、長くなり、冗と感じられる──そもそもこの文章は行ったり来たりしていて、ちっともすっと通らないじゃないか、なんてね。

簡潔に、読みやすく。それでも読みやすさを求める操作が高じると読みにくくなる。どこへ越しても読みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる……といいのだが。