2018年9月10日月曜日

「かげの向きがかわるのは地球が回るから」?

又聞きで恐縮ながら、

最近、こんな投稿がSNS上で話題になっていた。小学3年の理科のテストで「時間がたつとかげの向きがかわるのはなぜですか」という問題が出され、「地球が回るから」と答えたところ、バツをつけられたというのだ。
教師がテスト用紙に赤字で書き込んだ正解は、「太陽が動くから」。「学習したことを使って書きましょう」というコメントも添えられていた。

という話を聞いた(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57443)。

確かにそのコメントはまずいと思う。ただ、それをまずいと思う私の理由は、引用した記事の筆者とはちょっと違うかもしれない(つきつめれば同じところに行き着くことになるとしても──なお、以下の話は引用した記事の筆者が取り上げた意図とは基本的に無関係で、引用した出来事に対する私的な感想であり、同記事そのものについて論評しているのではありません)。

まず、その小学生が、このことによって、「地球は回っている」という知識が間違いで、「太陽が動いている」方が正しいと、この先もずっと思うことになるのだとしたら、ひどい話だ。その子がこの後、地球は回っているという話が理科の授業で出てきても、それはおかしい、あのとき太陽が動いていると習ったのにとしか考えられなくなるとしたら、先のコメントは本当にひどい一言だと思う。学生相手にそういう影響を与えそうなコメントを書かないように気をつけないと、と自戒もこめて思う。

でも、私がこの話に気を引かれたのは──当のSNSでの話の流れを見ていないので、少々ためらいながら書いているが──「かげの向きがかわるのは太陽が動くから」という全体は間違いではないということ、また、生徒の「かげの向きがかわるのは地球が回るから」という答えは、間違い、あるいは少なくとも「不正確」だということ、が理解されているか? と思ったからだ。教えたことと違うからバツというのは教え方としては論外だけど、「地球が回っているから」という答えでは不正確という意味では、この生徒の答えはやはりバツなのだ(少なくとも正解とは言えない)。

影を作るのは光である以上、その影の向きの変化は光源の向きの変化による。だから「太陽が動いているから」は、この場面では正解。それを、地球の動きを持ち出して説明するのであれば、正確には「地球が回っているために太陽の方向が変わるから」としなければならない(この問いの先に「なぜ太陽は動いているのですか」といった問いがあれば、それに対する答えは「地球が回っているから」で正解だが、ここで問われているのはそれではなかった)。

たんに「かげの向きがかわるのは地球が回るから」では、「地球の動き」という天体力学的現象と、「影の動き」という光学的現象との関係が不鮮明だ。もしかしたらこの子は、影が地球にくっついていて、地球が回るとそれと一緒に影も回ると思っているのかもしれない。それでは間違い(不正確)だし、この子の考えがそうではないことは、この答えからはわからない。その意味でも、この答えは不正確なのだ。

「正しい知識」もどういう意味で捉えられているか、とか、正しいことが正しいと言えるのは、ある限定された場面だけで、そこを超えて持ち出すのは適切ではないといったことは、もっとわかってもらうべきことだと思う。その点では、「太陽が動いているから」というこの場面での「正解」を書いていればいいというものでもない──機械的におぼえたことを書いているというのではつまらないし、これを最後に理科が嫌いになって、それきりになれば、やはり「太陽が動いている」のところだけが残ったのではさらにひどいかもしれない──のだが、「この授業の範囲での正解」を謳うのは、ある限られた意味でのこととはいえ、「科学的」とも言える。

もちろん、教育としては、だから無条件にバツでいいとか、習ったことをちゃんと使えと言えばすむ話ではない。いちばんの問題点は、そういう科学的な理屈のつけ方(思考の筋道)を、先生が(それこそコメントででも)教えることができていないということだろう。憶測だけれど、さらに教えても理解されず、「地球は回っているのは正しいのだから正解だろう」としか言われないのだとしたら、さらに不幸だ(私がいちばん心配する事態はそこかもしれない)。でもそれだからこそ、「地球は回っている」は正しいけれど、正しい知識でも正しく使わないと正しい推理はできないよという科学思考法的助言は必要だ。

「地球が回っている」ことは正しくても、何の問いに対してもその答えで正解になるわけではない。「いいじゃん、少々不正確でも、小さい子どもなんだから」というのが人情かもしれないが、それはやはり違うと思う(「不正確だというならせめて△くらいやれよ」というのなら私も同意する──△は非人情の科学の世界にいささかでも人情を関与させようとする媒体かもしれない──が、△を認めると、たいていの答えが△になってしまうという心配もする)。私はこの「違い」が理解できないのは、少なくともその違いに意味があることを理解しないのは、子どもだけでなく(ひょっとすると子どもよりも)、大人もそうだろうという危惧さえ抱いている。

木瓜(ぼけ)は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。
──『草枕』第十二節

来世にでもそうなれるのなら、それはそれでありがたい話かもしれないが、現世では、相手や世論や政治に理解してもらえなくても、結果としての知識より、筋道と検証(「真直な短かい枝に、真直な短かい枝」を「ある角度で衝突」させること)こそが科学だというところは譲れないと思って教えることができる教師なしに科学教育は成り立たない。

今回の件は、先生がそういう姿勢を示さなかった(らしい)ところが科学教育論的な反省材料。でも「子どもが正しいことを言っているのに、バツにするのはおかしい」という話でもない。「バツにする理由をきちんと語れてない」点がまずいのだ。結果としての知識が正しいか、間違いか、だけで考えてしまいがちな現実こそがいちばんの不幸なのだと思う。

「地球は回っている」は(それが適用できる場面では)正しいけれど、「かげの向きがかわるのは地球が回っているから」は不正確。その非人情の世界での違いは、語っても、教えても、なかなかわかってもらえない。(智に働けば)とかくに人の世は住みにくい……

2018年7月1日日曜日

「〜分前」と「強弱」


 昔、フランス語を教えていた20世紀末、時刻の表現が通じない、というより理解されないことに気づいた。教科書には、たとえば6時50分のことは、「sept heures moins dix」(7時マイナス10分、つまり「7時10分前」)と表すと書いてある。なぜわざわざそんな言い方をするのか、「six heures cinquante」と言えばいいのにというのが学生の言い分。

 実は私は当初、なぜそれが疑問なのかがわからなかった。もちろん自分では日本語でもそういう表し方はあたりまえにするからだ。でも、それは通じにくくなっているらしい……なぜかと考えて思い当たったのが、もうあたりまえになりつつあった(なっていた?)、デジタルの時刻表示。

 アナログの針表示なら、「6時50分」の針の形を見て、短針が指す最寄りの位置を見て、まず「7」と読む。そこより手前なので、「○○分前」と読む。これは時計の見方として自然だ。わざわざ遠い方の6を探して読む方が不自然だ。アナログ式の時計ができてからこのかた、それがすべてではなくても、十分に通用したし、まぎれもなかった。そういう事情を説明しつつ、今はデジタルの時代だから、デジタル表記をそのまま読んで、6時50分はフランス語でも「six heures cinquante」と表すようになるでしょう(もうなっているかも)と説明することにした。

 なんて昔話を思い出したのは、「「7時10分前」は何時のこと? 「6時50分」VS「7時9分」で大激論」という記事を見たから(https://www.j-cast.com/2018/06/27332399.html?p=all)。こうなると、もうデジタル表記しか認めないという人々が多くなったということなのだろう。「7」と言われたとたん、もう「7時○○分」以外は考えることはない、わざわざ「6」に戻す選択肢はありえないと考える人々が増えているということだと思う。

 しかるべき典拠はもう不明だが、「強弱」についても似たような話を聞いたことがある。たとえば「100強」と「100弱」は、古典的にはそれぞれ「100プラスアルファ」と「100マイナスアルファ」のことだが、今は「100を大きく超えている」と「100を少し超えている」と解する人が増えているのだとか。これもすでに「100」と言われているものを戻して「90いくら」にするのは不合理で、「100いくら」の「いくら」の部分の多少の差と解するのが、素直で合理的な読み方だということなのだろう。

 言いたいのはどちらが正しいかということではない。デジタル表記しか考えられない人が増えれば、そういう理解が出てくるのは当然のことで、アナログの針表記をふまえた表現を知っていて、それに慣れている人が少数派になり、ゆくゆくは死滅してしまえば、その後の時代には、「7時10分前」と言われて「6時50分」と思う人はいなくなる。そうなれば、それが「正しい」日本語として確定するということなのだろう。

 でも、今はその両方があり、両方が生まれるいきさつは、「かつて」はアナログの針表示が時計としてあたりまえだった時代の理解があり、そこで生まれた表現を、後の人が別の意味に使うようになったということ。前からの人も今の理解の理屈をふまえて、そういう言い方があるのだろうというのを理解し、後の人も、その表現の歴史をふまえて、そういう言い方があるのだということを理解するのが、言葉の歴史(進化)を理解するということだと思う。どちらが正しいか、はっきりさせようという話になるのは好まない。

いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく澌礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。長閑な春の感じを壊すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。この極めて安価なる気燄家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
──『草枕』第5節

 私も無意識に新しい言い方を取り入れて使うこともあるとはいえ、意識の上では、今となっては古い言葉を、この親方のように、場にそぐわないと言えるほどの力もないまま、私は使う──それで誤解されることもあるだろうが、そのときはそれは誤解だよと言うしかないだろう。それは好みの問題、選択の問題で、それが「正しい日本語」だからではない。ただ、新しい言葉づかいがあることを日々学習しつつ、そこに簡単に乗るつもりもない。単に「それが好きではないから」にすぎなくても。

 その新しい言い方は、ただ生まれたのではなく、ましてや昔から正しかったからそうなっているのではなく、古い言い方を誤解したとか、誤用したとか、あるいは不満足なところを「改良」するとか、様々ないきさつで、何らかの意味で古い言い方から生まれた、変化を伴う継承だ。そこには当然、そうなる前の古い言い方がある。定着するにしても、古い言い方と占有率を競って、そちらの方が残るというプロセスを通じて定着するものだ。それが──一方に抵抗勢力あっての──「進化」という現実だと思う。

 今の人は言葉を知らないと言って否定するのも了見が狭いが、逆に、言葉は変化(進化)するものだから、つねに新しい方が正しく、古い言い方を持ち出すのはやめてくれと否定するのも了見が狭い。今はどちらの表現もあるのだということを知り、状況に応じてそれが理解でき、できることなら使い分けるようにすることが、言葉を豊かにするということではないかと私は思う。わかりにくければ、わかろうとすることが大事だけれど(もちろん古い側も新しい側を)、わかりやすさだけを目指してわかりにくい言葉づかいを避けるのもどうかと思う。残らないものはどうせ残らない。でも、だから使わないようにするというのも違うと思う──そんなことを言っても、ただわかりにくい、場違いな文章を書いていることにしかならない、要らない文章になってしまいかねないけれど。とかくに人の世は住みにくい。

2018年3月16日金曜日

つれづれなるままに、それではすまないことを

よんどころなく仕事を中断せざるをえなくなって、本を一冊読み通す機会を得た。読んだのは門井慶喜の『マジカル・ヒストリー・ツアー』。

 ミステリーが産業革命の産物という基調もおもしろかったけど、読んでいるときにあれこれふらふらと考えていることが、多視点の語りというところにぶつかったというのもおもしろかった。

 大したことではなく、むしろお粗末な感想なのだけれど、読んでいるとき、文字を追ってはいるものの、考えは逸れていて、何ページもめくってから、あれ、何の話だっけと戻っていくのだけれど、けっこう長いこと本に対しては上の空だったという繰り返しで、同じところを何度も読み返してなかなか先へ進めないということ。

 進めないながらも、思い当たっては元に戻ってでも本の話の筋はつける。自分の思ってたことはそれなりに区切りをつけたり、メモしたりでこちらはこちらで筋をつける。考えることはもちろん一つではない。

 こういう現象はもちろんこの本に限ったことではなく、むしろたいていの場合そうなのだけれど、そういうことをしていて多視点の語りというのに遭遇して、ああそうかと思った。

 ミステリーは謎解きのための情報の提示のしかたが難しいというのはわかっていた。犯人が自分の知っていることを語ればすぐに謎解きは終わってしまうし、語らなければ情報を隠したことになってしまう。謎を解く「探偵」の語りでは、探偵がなにかを考えて答えを見つけた瞬間に話は終わってしまう。そこで探偵を外から描写するワトソン君のような存在が必要になるという、これも言われるとなるほどと思う。

 歴史ミステリーになると、視点はそれだけではすまないということになるのだけれど、語りの視点がばらばらでありつつ一つの話としてまとまるというのが大事なところ。

 長いこと科学書の翻訳をしているうちに、SFをやってみたいとか、ミステリーを訳してみたいとか、思うことがあるのだけれど、これは大変な(不遜な)ことだぞと思った。科学やロジックといった点はそれなりにこなせても、他人が構想する並行するいくつもの語りの筋道を通し、しかも伏せるべきことは伏せ、一つの本に破綻なくまとめるというのはおおごとだぞと*。

わが画にして見ようと思う心持ちは[雪舟などよりも──引用者補足]もう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても寤めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。
『草枕』第六節

視点というのとはちょっと違うが、できた、書けたと思う感覚には通じるところがある。それぞれの視点が、ああ自分は(視点は/著者は)ここにいた!と思えて最後に全部が収まる。なみたいていのことではないけど、そういうこともしてみたい。してみたいけど、なかなかできることではない。とかくに……いやいや、ここでそれを言うのはおそれ多かろう。まとまって集中できないつれづれに。

 なかなか更新はしていないけれど、もう一つのブログ「翻訳をしているうちに」もよろしく。

* アッシャー家の崩壊について、年代が特定されていないことについて、それはしなかったのではなく、そうせざるをえなかったのだという解説があり、それはそれで納得できる。ただここでの関心で大事なのは、私は普段、そういうところで年代を補うとか、場合によっては編集者からそういう補足をしてはどうかと言われたりするのがあたりまえの翻訳をしているということだ。ついそういうことをして著者の意図を台なしにしかねないのだなと思った次第。