2014年12月13日土曜日

それってネットの(スマホの)弊害?


 先日は「ニュース深読み」で「ながらスマホ」を取り上げたかと思うと、今度は「クローズアップ現代」で、読書かネットかという話。テレビも、私が属している本も、ネットのせいで旗色が悪いのは確かだけど、それでネガティブキャンペーン? テレビだって、そのおかげで人が本を読まなくなったと言われてたんじゃなかったっけ。

 「ながらスマホ」が悪いのは、たとえば公道を周りに注意しないで歩くことが悪いのであって、それはスマホに特有の悪ではない。スマホがない時代にも、周りを見ずに公道を通る人はたくさんいたし、今も、スマホを持たずに道路の邪魔をする人は相当にいる。これは公道を通るときは、ちゃんと周囲に注意が払える状態で通りましょうという、いつの時代にも言える話(ほんとにそうなってほしい)。スマホやネットの弊害を云々したいのなら、それじゃないと言えないことを持ってこないと。

 だからというわけか、ネット検索ばかりで読書しない人がまた増えたという話。しかも読書しない学生の小論文は、自分の意見がないんだとか。読書する人のほうができがよいとか。これも、メディアの使い方が上手か下手かという昔からある話で、本を読むからうまいのではなく、本でもネットでも上手に使えるからうまいということ(できた小論文が優れているとして)。「本も」使える人(ネットも使える)と、本を読まない(けどネットも大した使い方をしていない)人を比べて、本を読むほうがいいでしょ? というのはいかにもずるい。

 ネットがない時代だって、ちゃんと書ける奴もいれば、教科書・参考書丸写ししかしない奴もいれば、果ては他人のレポート丸写しの奴も(さらには他人にレポート書かせる奴も?)いたわけで、当時はみんながちゃんと書けていたのに、ネットのせいで力が落ちたというわけではないと思う(残念ながら実験はしていないが)。そんな日常的な光景を忘れてしまっているらしいのは、それもネットのせいで記憶力が悪くなったから?

 解説に呼ばれた立花隆が、これはネットの弊害の問題ではなく、メディアを使いこなせているかどうかの問題で、ネットには本にはない可能性があるという方向のことを言っているのに、でも本を読まないと困りますよねみたいな話に強引に持って行ってしまっている。そういう番組を作りたかったんだから、そうなるのはしかたないにしても、じゃあ、その前に問題をちゃんと立てておかないと(立花隆が呼ばれたのは、何万冊という厖大な蔵書があるからということらしいが、それだけの本を活用するには、Googleなみの検索能力が要るはずで、むしろ立花隆がネット検索的に本を使っているということを示しているのかもしれない、なんてね)。

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。
「御這入りなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
『草枕』第九節(これもぱらぱら「めくって」見つけた)

 その後二人は小説の読み方について議論したあげく、主人公の言う「非人情」な読み方を試すという話になっていく。いいねえ。ネットならもっとそんな読み方ができるし、それもまた「読み方」だ。それで「面白い」ことは出てくるし、逆にそうやって面白いことを見つけられないなら、本を読んだからといって見つかるのを当てにはできないだろう。

 本じゃなきゃできないことがあるように、ネットじゃなきゃできないこともある。ネットではできないこともあれば、本ではできないこともある(拙訳のジョンソン『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』(日経BP社)の「セレンディピティ」の章には、ネットではセレンディピティが得られないという批判に対するまっとうな答えがある──やっぱりそう思うんだと共感した)。

 ネットから入る人が多いのなら、ネットの可能性や落とし穴を教え、ちゃんとした使い方を教え、その先に、こんなメディアもあるよとネット以外のものも見せて可能性を広げるという方向を与えるべきだと思う。たったそれだけのことを、どうして、本かネットかという問題にしてしまうのだろう。結論がどうのこうのというより、問題の立て方の粗雑さのほうが気になる。それこそ、そんな短絡的な発想になるのも、ひょっとしてネットのせい? それとも、本を読ませなくなったテレビのせい?

 本があるところへネットが加わった。基本的には、それは豊かになったということだ。本の時代には本の豊かさを生かしきれなかったとしたら、テレビの時代にはテレビの豊かさを生かしきれなかったとしたら、ネットの時代にネットの豊かさを生かしきれないとしたら、そういうものを手にした人間のお粗末さということになるだろうが、まあ、そうならないように、新たなメディアができた中での旧いメディアの生きる道も見つけたい(というより、そうしないと暮らせない──とかくこの世は住みにくい)。

2014年12月5日金曜日

「インターステラー」を見た

 「コンタクト」では残る側だったマシュー・マコノヒーが今度は飛ぶほうだというので、これはぜひと思って見に行った。私にとっては「当たり」(人類の子孫のためと言いながら、掲げる旗が星条旗なのはどうかと思うが、どだいがアメリカ映画だし、NASAがやることなんだからしょうがないか)。結末にかけて不満がないわけではないけれど、あの終わりに持っていくには何かを作らなければならないし、現にないものを作るとなれば、無理もしないことには進まないし、その終わりは良かったと思う。

 それにしても、「コンタクト」がこの映画につながっているのは間違いなく、あの映画はやはり響くものが相当にあったんだなとあらためて思うし、マシュー・マコノヒーは「コンタクト」に出てよっぽど飛ぶほうをやりたかったのかな、などと思ったりもする。そういう「褒め方」は本作に対しては失礼なのかもしれないけれど、私にとってはやはり「コンタクト」なしには、この映画は見ることも、咀嚼し消化することもできないだろう。

 何はともあれ、DVDだかブルーレイだかが出たら何度か見て、あらためて、あああれはこういうことだったのかと思いたい。

 映画館を出たら、目の前のビルの谷間に満月間近の月が大きく出ていた。月より向こうの世界に出て行く映画だが、他の天体とこの大きさで向き合うのは、十分にSF的で、いつもは映画館に入る前と出るときの世の中の明るさの違いにちょっと違和感というか、それこそ落差を感じるのだが、今日は月がきれいに輝き始める頃具合になって、この映画帰りには、かえって喜ばしかった。

2014年11月18日火曜日

恐怖が判断を促進する?

 科学のニュースは解釈のほうが主/目玉になるものだけれど、とかく科学の成果の人間的意味はとり難い。

 日本の研究者が、恐怖のような感情は萎縮作用で判断力を鈍らせるという定説に対して、逆のことを示す結果を出したという(プレスリリース)。赤のモノクロによる蛇の写真と青のモノクロによる花の写真を見せて、色の判断はどちらが早いかという実験をすると、蛇のほうの「赤」が早く答えられたというもの。つまり、怖いものを見たときの「赤」という理性による判断のほうが、抑止されるどころか、高まっているということらしい。

 実験そのものはシンプルで、一貫した結果を出していて、うまく考えられているように思うが、でも本当にそういう意味なのだろうか。おそれ多くもこんなことを言おうという気になったのは、実はこの記事の冒頭に

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」といわれるように、理と情は対立するものと考えられています。

とあったことが大きい。私にとっては、何よりの「つかみ」だ。もっとも、せっかくの知・情・意の三すくみから、「理」と情の対立だけを取り出してそこに還元するのはもったいないとも思うし、何より、この記事からうかがえる「情が理を助ける」という含みにも危うさを感じる。科学(理)は情をさしおいてこそ科学なのに。

 きっかけはともかく、実験結果は、写真に対して、「蛇・赤」ととっさに(「怖い」以前に、反射的に)反応しているとも解釈できる。もちろん蛇に対して、たとえば「逃げる」という反応も反射的に起きるものだろうから、そのほうが早いというのは理解できるし、色を変えても一貫して蛇のほうが早いというのも、うなずける。ただそれは、恐怖の「感情」が促しているということなのだろうか。むしろ、反射的な危険回避行動(逃げろ)と一体になったものと言うべきではないのだろうか。ひとまず、とっさに危険回避して、後からじわっと「ああ怖かった」という情がわいてくる……のではないか。

 その怖いを自覚したら、「足がすくむ」のような抑制効果になることもある。ここで否定されているという「定説」はそちらのほうを言っているのであって、この実験が示したこととはすれ違っているような気がする。

 出典は知らないのだが、聞きおぼえの句に「情の極まるところ、理の極まるところなり」というのがある。これも、この句を使いたい人は「情をつくしてそれに従えば結局は理にかなった行動になる」というようなことを言いたくて、情をとことん高めた先に理もあると言いたいのだろうけれど、私はむしろ、「極まるところ」はさかのぼったほうにあると見て、理も情も根源は同じだけれど、そこから別の、場合によっては対立する方向に分化するというふうに考えたほうがいいような気がする。

 「何かやばいもの・逃げたほうがいいもの」(と意識してさえいないかもしれない危険回避の反射的反応)が根源で、そこからたとえば「これは蛇である」という理と、「怖い」という情が分かれる(さらには意識して「逃げろ」という意も)。理のほうを先へ進めれば、「これは実は危険な蛇ではない」といったことにもなるかもしれないし、情のほうを進めれば、「恐怖で身動きできない」状態というのが生まれるかもしれない。逆に、理と情が融和するところ(対立しないところ)は、そもそも理や情が存在する以前のところなのではないか。この記事の実験は、そこを見ているように思う。

 逆に「定説」のほうは、とっさの反応が間に合わなくて、理の部分で「あ、蛇だ」、情の部分で「怖い」と思ってしまったときに、意のままにならず「足がすくんで逃げられない」となってしまうといったところを見ているのではなかろうか。今回の説と定説のどちらが正しいかというより、両者は見ているところが違うということだろう。

 ひとまず、(本能的な)「回避すべき危険」を察知したときの反応のほうが早いと解すれば、そこまでは大いに納得できる。その反応こそが情だと科学的に定義するというのなら(それで科学者間で合意がとれるなら)、科学者のいう情はそういうものだと理解するしかないが、だからといって、それ漱石が言っている情だという保証はないし、私はそれは別物だと思う。

 もっと気がかりなのは、やはり、科学の内容が、人間的な意味のほうを前に出して伝えられるという傾向。伝えなければいけないという「空気」や、そうなると、人間的な意味がつかないと伝わりにくいという事情はわからないことはないが、そんな事情にひっぱられて浮足だってしまっては、伝えることの値打ちが下がってしまう。最初から人間的な意味をねらうのであればなおさら、実験の構想そのものに紛れ込む偏りのチェックが必要になる。

 そして実験は、やってみて、公表して、つっこみが入って、それをクリアする工夫が重ねられて、一連の実験の歴史(場合によっては伝説?)になる。だから、伝えられる側も、即決的に人間的な意味や価値を求めないとか、最後に位置する人だけ見ないとか、そういうふうに臨まないと、ということで、悪しからず。


2014年10月9日木曜日

憂鬱な季節

 まだ終わらないノーベル賞受賞関連ニュースを横目で見ながらこう考えた。残念ながら私はこのシーズンには憂鬱になる。(科)学を(科)学とは関係のない価値で称揚することに毎度うんざりするからだ。

 業績が評価されることは何にせようれしい。だから受賞者個人に祝意を表すことにやぶさかではない。それはよござんした。おめでとうございます。うれしいのは受賞者個人、その周辺の人々、それだけで十分だ。そこに、これで日本の受賞者が何人になったの、日本の研究が世界的であることが証明されたの、受賞者がどれだけ「いい話」の持ち主であるかだのの話をねじ込むから憂鬱になってくる。ニュース方面だけのこととはいえ、何日かかけて国をあげて祝賀しようというのなら、その祝賀のしかたでいいのかと思う。

 今年の場合、特許もあって、経済的にはすでに評価がされていたから、必ずしも評価が遅いとも言えないが、それにしても、成果そのものは二〇年も前のもの。それをもって日本の科学力を云々するという話ではなく、それを言いたいなら、受賞対象の成果があってから今までのあいだに何がどうなったかを問うべきだろう(科学離れ、理科離れが言われている状況に変わりはない。「日本人」受賞者の中には、日本を出てこそ成果をあげた人、成果をあげても日本では研究を続けられなかった人も含まれているという点も、「日本の力」の冷静な評価については無視できない)。

「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪るくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この……者は胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭いも知らぬ。現代文明の弊をも見認めぬ。……あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。(『草枕』第十三節)

 業界、あるいは専門家どうしはともかく、日本人一般として国をあげてめでたがるその理由が、ノーベル賞をとったからということなのだとしたら、つまりノーベル賞をとったからその研究がすごかったのだと思うのだとしたら(「こんなすごい人がいたんだと初めて知りました」──ニュースが伝える地元の人の感想にそんなのがあった)、日本人は日本人の研究成果を自らは評価できず、「世界的」な権威が認めてくれて初めてすごいと思えるという、これもまた、むしろお粗末な現実を指し示しているのだろう。本当に必要なのは、漱石の言葉やたとえはともかく、「自己の胃袋が一つあるか二つあるか」の意図するところを自ら弁じうるように、人々が自分の生活の向こうにある科学を弁じうる風土ではないか。

 ノーベル賞が「人類のために最大たる貢献をした人々に」与えられるものである以上、人間の都合に左右されるものにならざるをえない。知識そのものも人類への貢献だろうから、とくに物理学賞の場合は、直接に暮らしを良くするようなものでなくても受賞対象になることも多いが、今年はいつにも増して、生活を便利にする発明に目が行っているようだ(何年か前の物理学賞受賞者の先生が、今年の受賞について、「実生活に役立つ発明で受賞できてうらやましい」とおっしゃったとも伝えられる。もちろん社交辞令だろうが、科学者本人からそういう感想が出ることを、これまた「いい話」であるかのように伝えられるところがいやだ。もっとも、実生活に役立つ研究だから、研究環境は素粒子物理学よりもますます整えてもらえるんだろうなという本気のうらやましいと、そういう状況に対する皮肉だったりするのかもしれないが──これはあくまで勘ぐり)。

 「実生活に役立つ」は経済的な意義ではあっても、学術研究としての意義とは別ものだ。利用するのは人の都合。人類の貢献のために利用し、経済的効用をあげるのは人間世界にとっては喜ばしいことだろう。それに賞を出すのもけっこう。でもそれによって、科学の価値はそこにはないことが見失われるのだとしたら、科学の側からすると、むしろ迷惑かもしれない。だから私はノーベル賞が好きではない(もらう可能性もないのに、(科)学者ですらないのに、「よう言うわ」と自分でも思うけれど)。その点、イグノーベル賞はおもしろみのみが評価対象になっていて、役に立つかどうかは考えていないように見えるところがいい(研究者本人の意図はまた別だろうが──それにしても、こちらにも「実はこんなふうに役に立つ」みたいな報道のしかたが出て来たりして、せっかくの値打ちをなくす方向で持ち上げられることもあるようだ)。

 経済的・功利的な価値があるものだけが研究に値するかのような流れはむしろ強くなっていないか。おめでたい記者会見の席にあの話を持ち出して、ものすごいアウェーになった記者がいたが(いかにも出し方が下手だったのは確かだけれど)、今年の日本の科学界で「最大」のあの事件は、「日本の水準」が目先の利益でしか測られていないことの象徴ではなかったか。研究者の未熟のせいにしてすませるような話ではなく(未熟のせいにしたのもノーベル賞受賞者だったのは皮肉としかいいようがない)、研究の価値をどこに見いだし、どう評価するかという、システムや風土にかかわる話だったはずなのに、あのときはノーベル賞級と先走りしちゃったけど今度は本物のノーベル賞だとばかりに、また(今度は正式に)もてはやす。

 科学の科学としての価値は、人間の暮らしやら自尊心やらの人間の都合とは関係なく、何かが何かとしてわかるところにある(それを「美しい」と言ってもよいし、だからこそ漱石が芸術について言う「非人情」にも通じると思う)。科学の価値として青色LEDがすごいのは、青色LEDが青色を発する理屈や仕組み、それが実現する物質の組合せがわかるところにあるのであって、青色LEDができたら便利だからではない。こちらを評価するのは、経済的な価値観であって、科学的な価値とは別の話だ(青色LEDを原理を知りたくて研究するのと、青色LEDがあれば便利だからそれを作ろうと研究するのと、どちらが上というのでもない。経済的価値などどうでもいいというのでもない。ただただ、「人間社会的な利便を求めることを科学だと思っていては、科学は得られない」ということ)。

 研究環境が悪いから、研究費が足りないから、科学技術立国のためにはもっと厚く手当しないとという話も出てくるのだろう。でも、科学立国を唱える指導者たちは、「日本人は優秀だから、研究費や環境なんかなくても世界的な成果を出せるはずだ、成果を出せば、それで金も人も集まってくるだろうし、日本の力を見せた功績には報いますよ」とでも思っているんじゃないかと思えてしまうところもある(受賞を海外出張中に知らされた先生は、帰りはビジネスクラスにしていいと勤務先に言われたとか。逆に、別の受賞者の先生が、特許権料を大学に寄付していたという話もあったが、それだって、成果で研究費を稼ぎなさいという風土の表れだとすれば、「いい話」ですむことではない)。

 それに、世間的にも、苦労して成果をあげたという話のほうが受けるのかもしれない。

 それはともかく、研究費も好条件も、すでに成果があがっている人のところへ行きがちだというところを何とかしないと、ノーベル賞をとった研究者や研究室や研究分野に(つまりすでに成果が出ているところに)集まって、そこでさらに目立つ成果を出すことをせっつかれはしても、未知数の(お望みなら、だから次に賞を取れるかもしれない)ところに対しては、相変わらず薄いということになりそうという危惧もある。そういう研究であれば、「世界」で評価してもらって価値があることを証明できたら、こちらも評価しましょうということか? 結局、何よりかにより、いちばん必要な「インフラ」あるいは環境は、それぞれが自分で科学を科学として弁じる風土だと思う。

 なんてことを、この何十年、毎年(あるいは日本人が受賞するたびに)思っている(朝永振一郎先生か、せいぜ川端康成先生あたりまでは、おお日本人がと素直に喜べたのだが──ええ、ええ、今はひねくれていますとも)。要するに、受賞者はノーベル賞に値するほどの成果をあげたことがえらいのであって、ノーベル賞をもらったことがえらいのではない。その違いをあたりまえに理解した土台に立って成果をたたえる風土こそが、土壌のしっかりした「科学技術立国」に必要なものだろう。それがあたりまえにならないあいだは、毎年この時期は空騒ぎに憂鬱になるしかない……たかだか数十人の科学史の受講者を納得させることもできないのだから、その非力やもどかしさも合わせて。

 受賞者の先生方は、「好きなことを研究しろ」とおっしゃっている。もちろん、そうすればノーベル賞が取れるという意味ではない。ノーベル賞を(あるいはそういう目に見えやすい評価を)気にして仕事を選ぶなとおっしゃっているのだ(と思いたい)。

 今夜は文学賞の発表とか。人を楽しませる成果で受賞するわけですね。もちろん受賞者個人に対しては何のうらみも悪意もない(日本人候補者の作品は何十年か前にいくつか読んで、おもしろい小説だと思ったし、こういう文体もいいなと思った)。それが誰であれ、あらかじめおめでとうございます。これで物理学賞関連ニュースは終わりかな。それにしても、世の中に絶えてノーベル賞のなかりせば、秋の心はのどけからまし──またしてもよう言うわでした。

2014年8月30日土曜日

ハローキティは猫ではない

という風説についての記事を見た。何のことかと思えば、マグリットの“Ceci n’est pas une pipe”だった。最初は「キティは猫ではない」というのは、このマグリット風の洒落かと思って、その洒落がわからないという話かと思ったのだが……

余もこれから逢う人物を……ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。……画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。……間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。(『草枕』一)

私はとっさに、キティが猫であることにこだわることが、「人事葛藤の詮議立て」だと思ったのだけれど、やはりサンリオのほうが、無邪気(それもまた「非人情」の一種?)に楽しんでいるファンに、よけいなことを言ったということになるのかしらん。言わなきゃ猫かどうかの詮議立てもなかったのだろうから。むしろ、サンリオの身もふたもない見解に驚いてみせたほうが洒落になっている。

ただ、「あれは猫か」と正面切って聞かれれば、(科学的には)猫ではないと答えるしかないという面もある。そういう正しさが人々の夢を壊すというよくあるパターンの話なら、それはそれで注文をつけたくもなるけれど、今回は聞かれもしないのに訂正を入れたところが減点ということか(結局、「猫の擬人化」という、もっと身もふたもない事実を公式見解として表明せざるをえなくなったわけだし)。この話が、実はキティちゃんの絵でも着ぐるみでも、どこかわかりにくいところに、「これは猫ではない」と書き込まれていたことが判明したということならよかったのに。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。(同前)

……そういえば、今年もまた8月が終わるんだ。




2014年7月30日水曜日

理解可能、学習可能

 この夏に出る、学習と進化をアルゴリズムとしてとらえ、そのアルゴリズムがどういうものかを論じた拙訳を元に思ったこと。

 アインシュタインは「この宇宙についての永遠の謎は、宇宙が理解可能であるということだ」と言ったというが、理解できるように理解していると考えれば謎ではなくなる。われわれが理解しているのは、そのときに理解できることであって、その先のことは先にならないとわからないし、先になれば理解は修正、拡張される。ウィグナーの「物理学においておかしなほど数学が有効であることについて」という謎も、数学で表せる部分をとらえているからと考えればさほど「おかしな」こととは思えなくなる。

 ラムゼーの定理は、どんなデータにも何らかの「秩序」はつけられるのだから、ありえなさそうなことが成り立つという証明があったとしても(たとえば数秘術的な「こじつけ」のようなことが念頭にある)、驚くようなことではないというふうに使われるが、まさしく何らかの秩序がつく部分を把握することが「理解」であり、それを獲得することが広い意味での学習ということになる。学習は必ずしも意識的なものである必要がないとすれば、つまり「適応」も一種の学習と考えれば、生物の進化も、生物が延々と、必ずしも「完璧な正解」があるわけではない学習を続けているということになる。

 データが増えれば、(ほっといても)つけられる秩序も大きくなる。してみると、すべてがわかることは永遠にないかもしれないが、だんだんわかることは増え、広がるということになるかしらん。


  もう一つのほうのサイトの五月雨的アクセスはようやく止まったもよう。けっこう長く続いたことからすると、「コピペレポートのネタ」説は成り立ちそうにないが、何かの締切にはなったのだろう。そのもう一つのほうに書くべきことかもしれないのだが……書いているうちに、おこがましくも、『草枕』に出て来る、頭の中で巡る考えみたいに思えてきたので、こっちに。

2014年7月25日金曜日

ああ、これか……?

 もう一つのサイトのブログの、それもある特定のページのアクセスが急増して、何があったのだろうと思っていたのだけれど、自分の担当している授業が学期末になってきて、ふと思い当たった。どこかの大学で、そのページと同じテーマがレポートの課題になったのではないか(あるキーワードで検索すると、GoogleでもYahooでも、そのページが2番めに挙げられるという信じがたい事態にもなっている)。そうだとしたら、その「どこかの大学」では、このページのコピペレポートが頻出するのだろうか……そうだとしたら、課題を出した先生には恐縮です。不幸にしてコピペに気づかれず、そのうえで内容的にも評価が低かったりしたら、ますます恐縮;

 自分の場合、当初はチェックしていたが、これはこれで大変なので(手書きの答案を出させるという、せめてもの歯止めをかけていたので、逆にチェックが手作業になって、よけいに面倒になる)、最近は、課題をできるだけ限定して(授業の内容と自分の話をさせるように)、コピペをしても題意に合いにくいようにしている。それでも書くことがなければ何か適当なものを見繕ってくる場合があるのは避けられない。適当な長さの適切そうな話を探してネットを探しているのだろう。

 あちこち探すのなら、まだかすかな救いがある。検索結果の第2位に押し上げることになったのは、あれこれ探した人がいるということかもしれない。でも、まぎわに何とかかっこうをつけるために、誰かの結果として検索結果の第2位に浮上したものを使っておしまいになるとしたら、ますますいやになる。 

 ただこの問題は、コピペはいけないというだけではすまない話だと思う。昔だったら優秀な友だちに代筆を頼んでいた代わりが今のコピペになっているということなのだと思う。そういうことに向かわせる基本的な欲求が変わっているわけではないだろう。レポートなど、一般的には、「きちんとすること」よりも「早く終わらせること」のほうが優先順位は高いのだろうから、手間をかけずにレポートを出したという形を作りたいだけなら、「いけません」は歯止めとしては弱い(博士論文だって単に手続きの問題と思えば、学生からすればレポートと同類だろう)。今は照合がしやすくなって、ばれやすくなったから、あらためて電子ファイルで提出させるということも考えられるが、コピペチェックをしやすくするために、コピペをしやすいメディアを使わせるというのも、本末転倒のむなしいやり方のような気がする。とかくこの世は住みにくい。


「何だか考が理に落ちていっこうつまらなくなった。こんな中学程度の歓想を練りにわざわざ、鏡池まで来はせぬ」(第十節)……くらいに思って、使わないでくれることを願う(探しまわって立派なものが見つかったら、自分が書いたふりをして使えというつもりはないが)。

2014年6月26日木曜日

「まじめにUFOの研究」というニュース

 朝のニュースを見ていたら、そういう小ネタを流していた。フランスの研究組織が行なっているという(記憶のみなので、以下も含め、必ずしも正確な再現ではありません、悪しからず)。

 このことに「まじめにUFOの研究」といったタイトルをつけたり、またそのように報じたりすれば、この「UFO」は一般に、「宇宙人」あるいは「宇宙人の乗った乗り物」という意味でとられるだろう。それが今のUFOという言葉の一般的な使い方だからだ。

 でも、たぶん紹介された組織が研究しているのは、本来の意味でのUFOだろう。つまり未確認飛行物体。未確認だから、いったい何なのか確認しようとしている。もちろん、まじめに。地球の上空で見られた飛行物体がいったい何かということで、結果は熱気球かもしれないし、ただの風船かもしれないし……ということ。確認されていないものを確認するという、しごくまっとうな作業だ。しかしその仕事を「まじめに宇宙人を研究している」と聞こえるように報じるのはずるい(もちろん、本当の意味で宇宙人をまじめに研究している科学者はいくらもいるが、それは今回とはまったく別の話)。画面を見ただけでは正体不明の飛行物体の画像をただ流し、「星とは違うわ」という目撃者の感想をただ流すだけで、調べた結果が何だったかには触れない(元のニュースがそうだったのだとしても、それをそのまま流しただけといって正当化できることではない)。

 参加している研究者の「信じているとは言えなくても、可能性はゼロではありません」というような言葉も引用されていたけれど、これも(訳やまとめが正しいとして)、そういう引用のしかたでは、ああこの人は宇宙人がいると思ってそれを調べているんだなととられるだろう。「可能性がゼロではない」→「可能性がある」→「いる」→「あれがそう」というふうに拡大解釈が進んでいく。むしろ、「この映像が宇宙人の乗り物だとは信じてはいませんが、宇宙人はいないとは言えません」のようなことを言っていたと考えるほうが、筋は通る。もちろん、「宇宙人はいない」とは誰にも言えない。でも、「いないとは言えない」ことをもって「いる」とは、やはり誰にも言えない。そこが往々にして混乱する。

 同じ局は、かつて別の番組で、同様の研究調査(もしかしたら今回と同じ団体?)を取り上げた番組を作っていたはず。そのときは、未確認のものを確認するというまっとうな扱いをしていた(もちろん地球上の自然現象あるいは地球人による人為現象という答えになる)。それを知ってか知らずか、どうせ笑える小ネタだと言わんばかりのこの扱いはひどい。UFO=宇宙人という日常的な感覚ができてしまっていることに乗っかって(編集サイドもアナウンサーも、UFO=宇宙人という誤解を共有しているということかもしれない)、その誤解に基づいて揶揄し、下手をすると活動の中身を歪曲してしまうのだから。

 UFOもそのままの姿(=確認されていないもの)と見れば科学の対象になる(前回の引用を参照のこと)。その先にありもしないものを想定すれば、小説でも夢想でも、それなりに楽しいものができて、それこそ虚構(ひいては芸術)の威力だろうが、その興(趣)にのみこまれ、そのままではない姿(=宇宙人の乗り物)のほうを元にして報道としてしまったのでは、本末転倒と言うしかない。

 これまた前回も引用した部分と重なるが、

「余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びている。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。」

「詩趣」を科学に、「芸術家」を科学者にすれば、そのまま同じことが言えるのではないかと私は思っている。そこに「UFO=宇宙人の乗り物」という「余計な探ぐりを投げ込んで」、「願ってもない風流を」(と、あえて科学のことをそう言っておく)、誤解のばかばかしさが「踏みつけにしてしまった」と思う(ここの「入らざる詮義立て」は嘘か本当かという話ではない。現象以上の意味を投げ込むことだと思う)。ついこのあいだも(捏造かどうかが問題になる以前に)同じようなことをしたとは、番組の人々は思ってさえいないのだろう。今回の「ニュース」は、たかが小ネタ、まともに見ている人がどれほどいるかと言われればその通りなのだろうが、(議会の)ヤジと同じで、深く考えずに反応しているところに本性が表れるということでもある……結局私もそうなのだが。とかくこの世は住みにくい。


2014年4月23日水曜日

仁義礼信

 NHKBSの「新日本風土記」会津編を見ていたら、会津女性の心得みたいなのが「仁義礼信」にまとめられていた……智がない! 智は余計なんだろうね(それとも編集で落とされたのだろうか──その徳目を紹介する場面が二回あったので、そうとも思えないが)。もちろん知(識)を否定しているわけではないだろうけれど、知が前に出るような頭や心の使い方はむしろなくていいと見られるのは、現代では、会津にも女性にも限らない話だろう。IQに代わってEQをなんてことも言われるし(その実体はともかく、測ろうと注目する部分として)、知はいちばん「嫌われ」ている徳目かもしれない。

 「知・情・意」の「知」は、ただ知っているかどうかというより、科学的な──職業や制度としてではなく、理念としてという断り書きの必要度がますます高まっているご時世だが──知り方、考え方、場合によっては行動のしかたのことだと思う(五常の「智」に科学を押しつけるのも何だが、概念的にはこれもたぶん、そうくくることはできる……少なくとも嫌われている部分では)。

 何も知を上位に置けと言うつもりはない。ただ、知情意でも五常でも、せっかく一組ひとそろいで認知、評価されているのに、ことさらに(と見える)知だけ落とす、あるいは格下に置くというところには、やはり不満を感じてしまう(前にも触れた、「理数系にナイーブ」であることが今や──あるいは昔から──美徳らしい)。

 何代か前の首相が政治姿勢や方針を語るときに、ことさらに「おもい」(「思い」?「想い」?)という言葉を多用していて、こちらは気持ち悪い(あるいはむしろ「軽い」)と思ったのだが、どうやらあの人だけの用語ではなさそうだ。政治のような公共のものを、「おもい」という情や意に偏ったことで語ったり、ましてや決めたりしてほしくない、「おもい」とは別のところに(ここで言う非人情の世界に)あることについての「知」もふまえてくれないと、ということだ。でも政治家が「おもい」に軸足をシフトするのは、そのほうが情に篤かったり、意思が強固だったりに見えて、そういうのを歓迎する風土があることを知っていればこそのことだろう。

怖いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿るところやら、憂のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢るるところやらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる(『草枕』三──強調は引用者)

 漱石の非人情は芸術のものだけれど、この世のありさまを再現する点で芸術も科学もねらいは同じだと思う。上には「客観的」とあるが、それが非人情にかかわるところであり、科学的知につながるところだと私は思う。政治でも何でも、「○○と芸術は違う、科学は違う」という話ではない。それぞれの根本にある、世界に対する姿勢の話だと思う(せめてオプションの一つとしてでも)。

 もちろん、漱石の非人情は、情・意だけでなく知も脱しないといけないのだろうけれど、それはやはり知・情・意そろっていればこその超脱だろう。現状はむしろ、知が欠けているのでますます知の世界が非人情の(世間的には不人情の)代表みたいに見えてしまうのかもしれない。


 上に引いた部分の少し後には、

好題目がありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴する資格はつかぬ

とある。たしかに──知とか科学とか言っているけれど、嫌われているのは、要するに、こういうふうにこねくりまわす理屈なのだろう。とかくこの世は住みにくい。

2014年4月4日金曜日

映画『コンタクト』

 ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルで『コスモス』の現代再製作版が始まったと思ったら、ムービープラスで『コンタクト』がかかっている。わりとあちこちの局でよく放映される映画だが、科学史や科学論の授業をする身にとってはよくできた映画で、授業中にもときどき引き合いに出して薦めたりする。


 結局「大人の」政治の話になってしまったSTAP細胞問題も、『コンタクト』的に「読む」こともできる(あくまで読み方であって、真相などと言うつもりもないし、さらに念のために言えば、エリーの側を支持するという意味でもない)。この際(ってどんな「際」だか)、あらためてお薦め。

2014年3月15日土曜日

「徹底的に教育し直さなければ」

と、上層部の人が言っていることが各メディアで報じられている。組織や訓練システム内の問題としては確かにそういうところはあるのだろう。このくらいは当たりまえだろうとは、なかなか期待できないということでもある。

だから、教育し直すというのは、受け止め、評価する側が自らについて考えるべき課題でもあるということ。理研にもNature信仰があるのだろうか、発表された段階で、赫々たる成果を誇る姿勢だったことは確かだし、報道も「日本がまた!」のお祭りムードだった。「尋常でない説には尋常以上の証拠がいる」というのは、科学の基本姿勢と言っていい(私が好きな面と言うべきかもしれない)。今回の騒ぎには、その姿勢が、科学の話を受け止める側にも、「発見」を評価する側にもいささか欠けていたように思う。疑問を口にするのもはばかられるような……

 悪意の有無が追及されているが、悪意がなければいいという話でもない。たとえ悪意がなくても、これは起こりうることなのだ。場合によっては指弾が必要なこともあるとはいえ、それ以前に、健全な懐疑や適切なスルーも、研究者本人から、報道、さらにはその報道を受け止めるに至るいろんな局面で必要だと思う。

やっていいことといけないことのマニュアルを作るなどと考えるとぞっとするが、それでも、コピペや画像の使い回し、修整がいけないということを知らないのなら、もちろん教えなければいけないだろう。でも、いちばん教えてほしいのは、健全な懐疑だ(自分に対するものも含め)。イノベーションは常識に反しているものだけれど、常識に反すればイノベーションになるわけではない。健全な懐疑をくぐり抜けてこそ、すごいことになる。しかしこの懐疑は、保守的で頑迷な、独創性やイノベーションを理解しない偏狭な姿勢として、あるいはみんなが沸いているのにそれに水を差す姿勢として、ばかにされ、嫌われることが多い(健全でない懐疑もままあるからややこしいのだけれど)。だから余計に、それぞれの方面でそのことを「教育し直す」必要があると思う。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる」

漱石が論じる芸術(ここでは「詩」)と科学は違うけれど、通じているところを感じてしまう『草枕』でした。

2014年3月13日木曜日

あったらいいな、そうだったらいいな……

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

 これを見て、ああ『草枕』だと思ってくれる人がふつうにいれば、引用を明示することもないのだけれど、そうでなければ、断りもなくこんなことを記すと「ぱくり」になる。提出する文書の大部分がコピペでクレジット表示もないとなればやはりまずいとはいえ、言葉も音楽も美術も科学も、先人が築いたものの上に乗ったものであるのにはちがいない。口をついて出るフレーズ、頭にわき上がるように浮かぶメロディーが、実は誰かの創作だったということはある。自分で気づかずにそうした後でそれに気づいたときは、残念でまた恥ずかしい、「やっちまった」感が伴う……

 草枕の引用を途中で切るのが惜しくて長くなった流れで話は始まってしまったが(ついでに「三十の今日」は、私自身に重ねるなら「六十に近い今日」にしなければならないが)、そういうことが言いたいわけではなかった。

 作曲家のゴーストライター騒ぎもSTAP細胞騒ぎも、持ち上げるのも落とすのも、同じメディアだということ(その逆の、「怖そうに見えて実はいい人」扱いも構造は同じ)。後でたたくことをねらって持ち上げておくのかとさえ思ってしまう。追及の舞台を整えて悪役をひれふさせるという話が好きなのは、水戸黄門から半沢直樹へと脈々と引き継がれる人々の本性なのだろうから、メディアのこちらにいる人々もそれで納得しているということか?

 別にあの作曲家、この研究者などを擁護しようというのではない。しでかしたことはしでかしたこととしてその始末もつけなければならないだろう。ただ、

「アイデア」(広い意味で言っている)の評価と人の評価が重なってしまうこと(優れた成果をあげた人は人間としても立派だ、そうでなければならない)

と、

「アイデア」の価値を、受け止める側の都合や思惑や筋書きで決めること(あったらいいなの願望に沿うものが、日本人の、しかも女性によって発見された!)

にはうんざりしている。人は本当にそういう「ニュース」を求めているのだろうか。そうだとしても、求められているから「作る」(構成する)んだというのも、おとぎ話としてのドラマならともかく、報道とは別の世界の話だ。

 願望や好みに合うものが出て来た段階で、それに魅力を与えているのは、向こうの価値ではなく、こちらの願望や好みだということを考えるのがよろしいかと。願望や好みに合う話は、「事実であってほしいこと」であって、事実ではない(まだ事実になっていない)。たとえ本人に悪意がなくてもこういうことはありうる。そういう区別や認識が、メディアやそれを通じて見える世間では、どんどんなされなくなっているような感じがしている。

 何で持ち上げたり乗ったりする前に、本当か?と思わないのだろうか……でも、冷静に眉に唾をつけて、乗らなかったら、それはそれでとやかく言われるんだろうね。それもまたどこかで聞いた話、いつか来た道だ。

 何より、私自身、飛びついてしまうことはある……だから、そこで一息つかないと。こういう話は、拙訳の中でも気に入っている、シュルツの『まちがっている』(青土社)の系譜に属する事例だと思う(本人たちのことより、受け取る側として)。

2014年1月31日金曜日

STAP細胞

 う~ん。本物ならすごいことだけど……(「本物なら」というのは、「これがこの研究室での幼いマウスにしか見られない、特殊な事例ではなく、再現性も普遍性もある現象なら」ということ)。それに、この結果だけだと、「リセット」の敷居があまりに低すぎて、逆に怖いくらいだ(私の理解は主として、研究者の所属する理化学研究所から出ているプレスリリース記事による)。

 事象の発見は出発点として重要なことだけれど、それだけでは科学にはならない。肝心なのはその先。どうしてそうなるのか、逆に、ふつうに過ごしている生物ではどうしてそうならないのか、見きわめるべきことはこれからだ(先のプレスリリースは「原理の発見」と銘打っているが、その内容からすると、むしろ「原理が存在することの発見」と言うほうが正確ではないかと思う)。

 もちろん、そのことは当の研究者自身がよくわかっているし、記者会見では数十年先、百年先の社会に貢献できればとも言われている。そういうものだろうと思う。翻訳業をしているとときどき見かける言い方にならえば、この研究の意味は(現時点ではまだ、先の「本物なら」の条件はつくが)、「この先何年あるいは何十年も、生物学者が忙しくなるようなテーマを発見した」ということだ。

 研究者でもないのに偉そうなこと言ってしまっているが、研究にけちをつけようというのではない。むしろ、その成果を受け止める社会の応対の話として持ち出したこと。研究の価値を、内容よりもむしろ、目の前に見えているかのような実用的な可能性や、研究者個人の魅力や、それが日本人の成果であることのほうで語る類の、つまり誰かがノーベル賞をもらったときにおなじみの紹介のしかたを、しかもこんなに先走ってするのはどうかと思う。

 技術は、原理がわからなくても、できることを元にして進めることができる。だから発達もするが、逆に、当初は知られていなかった/無視していたことが後からわかって/表面化して、「想定外」に訴えるはめにもなる。今回の話は科学で、科学を人間の思惑、ましてや日本人の都合で評価するのは控えたほうがいいと思う。ひとまずは、「これ、いったいどういうこと?」と応じたい。研究支援という話にもなるだろうが、実用化をせかすようなものばかりにせず、原理の解明もできるような、基礎研究に対しても行なってほしい。


 さらには、ことがことだけに、この際、「若返り」や「再生」のための技術がもたらす世界のありようも想定内に入れて、数十年先に「実用化」されたとき、その技術を適切に使えるようにするような応対もしたいし、してほしい。そのための「数十年」でもあってほしい(数十年の下限あたりなら、まだ生きているかもしれないが、それを見たいような見たくないような……)。

2014年1月9日木曜日

冬の月がきれいなわけ

 何かのテレビ番組で、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という句につけた絵が三日月の形になっているのを見たのをきっかけに、授業で学生に、この句の月の形を描けというクイズを出して、したり顏に解説したりしているのだけれど、Why the Moon Looks Different in Winterという記事が目に入って、今さらのように目を見開かされてしまった。つい何日か前には、授業の最終回のしめくくりに、『ハムレット』の「この天と地のあいだにはな、おまえの哲学では思いもよらぬことがあるのだよ」という台詞を引用したところなのに、やっぱり偉そうなことを言っていると、自分に跳ね返ってきてしまう。

 要するに、満月は太陽と正反対の側にあるので、冬の満月付近の明るい月は、夏の太陽の高度が高くなるのと同じ理由で高度が高くなるということ。もちろん日本では、そこに空気の乾燥や塵の少なさなど、追加の因子があって、いわゆる「冴えた月」になるのだろうけれど、このことに気づかされる前は、空気の状態ばかり考えていて、見上げる月というところには気づいてなかった──「観察、仮説、実験、考察」は、Eテレの「考えるカラス」という番組が掲げる科学的思考のスタイルだが、出発点の「観察」がかなりの難関かもしれない。


 でも、そう言えば清少納言は「しはすの月夜」は「すさまじきもの」にしていたなと思い出したのだが、念のためと『枕草子』を見てみると、これがない! これまたとんだ思い違いをしていたのかと思って少しググってみると、このくだりがある写本があり、『源氏物語』が「すさまじき例に言い置きけむ人」として、このことを批判的に書いているということらしい。これまた、自分で知っていると思っていたことよりずっとおもしろい話を、今さらやっと知った次第……あまりしたり顔はしないように気をつけないとという、遅ればせながら年頭所感。