2014年1月31日金曜日

STAP細胞

 う~ん。本物ならすごいことだけど……(「本物なら」というのは、「これがこの研究室での幼いマウスにしか見られない、特殊な事例ではなく、再現性も普遍性もある現象なら」ということ)。それに、この結果だけだと、「リセット」の敷居があまりに低すぎて、逆に怖いくらいだ(私の理解は主として、研究者の所属する理化学研究所から出ているプレスリリース記事による)。

 事象の発見は出発点として重要なことだけれど、それだけでは科学にはならない。肝心なのはその先。どうしてそうなるのか、逆に、ふつうに過ごしている生物ではどうしてそうならないのか、見きわめるべきことはこれからだ(先のプレスリリースは「原理の発見」と銘打っているが、その内容からすると、むしろ「原理が存在することの発見」と言うほうが正確ではないかと思う)。

 もちろん、そのことは当の研究者自身がよくわかっているし、記者会見では数十年先、百年先の社会に貢献できればとも言われている。そういうものだろうと思う。翻訳業をしているとときどき見かける言い方にならえば、この研究の意味は(現時点ではまだ、先の「本物なら」の条件はつくが)、「この先何年あるいは何十年も、生物学者が忙しくなるようなテーマを発見した」ということだ。

 研究者でもないのに偉そうなこと言ってしまっているが、研究にけちをつけようというのではない。むしろ、その成果を受け止める社会の応対の話として持ち出したこと。研究の価値を、内容よりもむしろ、目の前に見えているかのような実用的な可能性や、研究者個人の魅力や、それが日本人の成果であることのほうで語る類の、つまり誰かがノーベル賞をもらったときにおなじみの紹介のしかたを、しかもこんなに先走ってするのはどうかと思う。

 技術は、原理がわからなくても、できることを元にして進めることができる。だから発達もするが、逆に、当初は知られていなかった/無視していたことが後からわかって/表面化して、「想定外」に訴えるはめにもなる。今回の話は科学で、科学を人間の思惑、ましてや日本人の都合で評価するのは控えたほうがいいと思う。ひとまずは、「これ、いったいどういうこと?」と応じたい。研究支援という話にもなるだろうが、実用化をせかすようなものばかりにせず、原理の解明もできるような、基礎研究に対しても行なってほしい。


 さらには、ことがことだけに、この際、「若返り」や「再生」のための技術がもたらす世界のありようも想定内に入れて、数十年先に「実用化」されたとき、その技術を適切に使えるようにするような応対もしたいし、してほしい。そのための「数十年」でもあってほしい(数十年の下限あたりなら、まだ生きているかもしれないが、それを見たいような見たくないような……)。

2014年1月9日木曜日

冬の月がきれいなわけ

 何かのテレビ番組で、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という句につけた絵が三日月の形になっているのを見たのをきっかけに、授業で学生に、この句の月の形を描けというクイズを出して、したり顏に解説したりしているのだけれど、Why the Moon Looks Different in Winterという記事が目に入って、今さらのように目を見開かされてしまった。つい何日か前には、授業の最終回のしめくくりに、『ハムレット』の「この天と地のあいだにはな、おまえの哲学では思いもよらぬことがあるのだよ」という台詞を引用したところなのに、やっぱり偉そうなことを言っていると、自分に跳ね返ってきてしまう。

 要するに、満月は太陽と正反対の側にあるので、冬の満月付近の明るい月は、夏の太陽の高度が高くなるのと同じ理由で高度が高くなるということ。もちろん日本では、そこに空気の乾燥や塵の少なさなど、追加の因子があって、いわゆる「冴えた月」になるのだろうけれど、このことに気づかされる前は、空気の状態ばかり考えていて、見上げる月というところには気づいてなかった──「観察、仮説、実験、考察」は、Eテレの「考えるカラス」という番組が掲げる科学的思考のスタイルだが、出発点の「観察」がかなりの難関かもしれない。


 でも、そう言えば清少納言は「しはすの月夜」は「すさまじきもの」にしていたなと思い出したのだが、念のためと『枕草子』を見てみると、これがない! これまたとんだ思い違いをしていたのかと思って少しググってみると、このくだりがある写本があり、『源氏物語』が「すさまじき例に言い置きけむ人」として、このことを批判的に書いているということらしい。これまた、自分で知っていると思っていたことよりずっとおもしろい話を、今さらやっと知った次第……あまりしたり顔はしないように気をつけないとという、遅ればせながら年頭所感。