2014年4月23日水曜日

仁義礼信

 NHKBSの「新日本風土記」会津編を見ていたら、会津女性の心得みたいなのが「仁義礼信」にまとめられていた……智がない! 智は余計なんだろうね(それとも編集で落とされたのだろうか──その徳目を紹介する場面が二回あったので、そうとも思えないが)。もちろん知(識)を否定しているわけではないだろうけれど、知が前に出るような頭や心の使い方はむしろなくていいと見られるのは、現代では、会津にも女性にも限らない話だろう。IQに代わってEQをなんてことも言われるし(その実体はともかく、測ろうと注目する部分として)、知はいちばん「嫌われ」ている徳目かもしれない。

 「知・情・意」の「知」は、ただ知っているかどうかというより、科学的な──職業や制度としてではなく、理念としてという断り書きの必要度がますます高まっているご時世だが──知り方、考え方、場合によっては行動のしかたのことだと思う(五常の「智」に科学を押しつけるのも何だが、概念的にはこれもたぶん、そうくくることはできる……少なくとも嫌われている部分では)。

 何も知を上位に置けと言うつもりはない。ただ、知情意でも五常でも、せっかく一組ひとそろいで認知、評価されているのに、ことさらに(と見える)知だけ落とす、あるいは格下に置くというところには、やはり不満を感じてしまう(前にも触れた、「理数系にナイーブ」であることが今や──あるいは昔から──美徳らしい)。

 何代か前の首相が政治姿勢や方針を語るときに、ことさらに「おもい」(「思い」?「想い」?)という言葉を多用していて、こちらは気持ち悪い(あるいはむしろ「軽い」)と思ったのだが、どうやらあの人だけの用語ではなさそうだ。政治のような公共のものを、「おもい」という情や意に偏ったことで語ったり、ましてや決めたりしてほしくない、「おもい」とは別のところに(ここで言う非人情の世界に)あることについての「知」もふまえてくれないと、ということだ。でも政治家が「おもい」に軸足をシフトするのは、そのほうが情に篤かったり、意思が強固だったりに見えて、そういうのを歓迎する風土があることを知っていればこそのことだろう。

怖いものもただ怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己れを離れて、ただ単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしいところやら、同情の宿るところやら、憂のこもるところやら、一歩進めて云えば失恋の苦しみそのものの溢るるところやらを、単に客観的に眼前に思い浮べるから文学美術の材料になる(『草枕』三──強調は引用者)

 漱石の非人情は芸術のものだけれど、この世のありさまを再現する点で芸術も科学もねらいは同じだと思う。上には「客観的」とあるが、それが非人情にかかわるところであり、科学的知につながるところだと私は思う。政治でも何でも、「○○と芸術は違う、科学は違う」という話ではない。それぞれの根本にある、世界に対する姿勢の話だと思う(せめてオプションの一つとしてでも)。

 もちろん、漱石の非人情は、情・意だけでなく知も脱しないといけないのだろうけれど、それはやはり知・情・意そろっていればこその超脱だろう。現状はむしろ、知が欠けているのでますます知の世界が非人情の(世間的には不人情の)代表みたいに見えてしまうのかもしれない。


 上に引いた部分の少し後には、

好題目がありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴する資格はつかぬ

とある。たしかに──知とか科学とか言っているけれど、嫌われているのは、要するに、こういうふうにこねくりまわす理屈なのだろう。とかくこの世は住みにくい。

2014年4月4日金曜日

映画『コンタクト』

 ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルで『コスモス』の現代再製作版が始まったと思ったら、ムービープラスで『コンタクト』がかかっている。わりとあちこちの局でよく放映される映画だが、科学史や科学論の授業をする身にとってはよくできた映画で、授業中にもときどき引き合いに出して薦めたりする。


 結局「大人の」政治の話になってしまったSTAP細胞問題も、『コンタクト』的に「読む」こともできる(あくまで読み方であって、真相などと言うつもりもないし、さらに念のために言えば、エリーの側を支持するという意味でもない)。この際(ってどんな「際」だか)、あらためてお薦め。