2014年10月9日木曜日

憂鬱な季節

 まだ終わらないノーベル賞受賞関連ニュースを横目で見ながらこう考えた。残念ながら私はこのシーズンには憂鬱になる。(科)学を(科)学とは関係のない価値で称揚することに毎度うんざりするからだ。

 業績が評価されることは何にせようれしい。だから受賞者個人に祝意を表すことにやぶさかではない。それはよござんした。おめでとうございます。うれしいのは受賞者個人、その周辺の人々、それだけで十分だ。そこに、これで日本の受賞者が何人になったの、日本の研究が世界的であることが証明されたの、受賞者がどれだけ「いい話」の持ち主であるかだのの話をねじ込むから憂鬱になってくる。ニュース方面だけのこととはいえ、何日かかけて国をあげて祝賀しようというのなら、その祝賀のしかたでいいのかと思う。

 今年の場合、特許もあって、経済的にはすでに評価がされていたから、必ずしも評価が遅いとも言えないが、それにしても、成果そのものは二〇年も前のもの。それをもって日本の科学力を云々するという話ではなく、それを言いたいなら、受賞対象の成果があってから今までのあいだに何がどうなったかを問うべきだろう(科学離れ、理科離れが言われている状況に変わりはない。「日本人」受賞者の中には、日本を出てこそ成果をあげた人、成果をあげても日本では研究を続けられなかった人も含まれているという点も、「日本の力」の冷静な評価については無視できない)。

「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪るくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この……者は胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭いも知らぬ。現代文明の弊をも見認めぬ。……あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。(『草枕』第十三節)

 業界、あるいは専門家どうしはともかく、日本人一般として国をあげてめでたがるその理由が、ノーベル賞をとったからということなのだとしたら、つまりノーベル賞をとったからその研究がすごかったのだと思うのだとしたら(「こんなすごい人がいたんだと初めて知りました」──ニュースが伝える地元の人の感想にそんなのがあった)、日本人は日本人の研究成果を自らは評価できず、「世界的」な権威が認めてくれて初めてすごいと思えるという、これもまた、むしろお粗末な現実を指し示しているのだろう。本当に必要なのは、漱石の言葉やたとえはともかく、「自己の胃袋が一つあるか二つあるか」の意図するところを自ら弁じうるように、人々が自分の生活の向こうにある科学を弁じうる風土ではないか。

 ノーベル賞が「人類のために最大たる貢献をした人々に」与えられるものである以上、人間の都合に左右されるものにならざるをえない。知識そのものも人類への貢献だろうから、とくに物理学賞の場合は、直接に暮らしを良くするようなものでなくても受賞対象になることも多いが、今年はいつにも増して、生活を便利にする発明に目が行っているようだ(何年か前の物理学賞受賞者の先生が、今年の受賞について、「実生活に役立つ発明で受賞できてうらやましい」とおっしゃったとも伝えられる。もちろん社交辞令だろうが、科学者本人からそういう感想が出ることを、これまた「いい話」であるかのように伝えられるところがいやだ。もっとも、実生活に役立つ研究だから、研究環境は素粒子物理学よりもますます整えてもらえるんだろうなという本気のうらやましいと、そういう状況に対する皮肉だったりするのかもしれないが──これはあくまで勘ぐり)。

 「実生活に役立つ」は経済的な意義ではあっても、学術研究としての意義とは別ものだ。利用するのは人の都合。人類の貢献のために利用し、経済的効用をあげるのは人間世界にとっては喜ばしいことだろう。それに賞を出すのもけっこう。でもそれによって、科学の価値はそこにはないことが見失われるのだとしたら、科学の側からすると、むしろ迷惑かもしれない。だから私はノーベル賞が好きではない(もらう可能性もないのに、(科)学者ですらないのに、「よう言うわ」と自分でも思うけれど)。その点、イグノーベル賞はおもしろみのみが評価対象になっていて、役に立つかどうかは考えていないように見えるところがいい(研究者本人の意図はまた別だろうが──それにしても、こちらにも「実はこんなふうに役に立つ」みたいな報道のしかたが出て来たりして、せっかくの値打ちをなくす方向で持ち上げられることもあるようだ)。

 経済的・功利的な価値があるものだけが研究に値するかのような流れはむしろ強くなっていないか。おめでたい記者会見の席にあの話を持ち出して、ものすごいアウェーになった記者がいたが(いかにも出し方が下手だったのは確かだけれど)、今年の日本の科学界で「最大」のあの事件は、「日本の水準」が目先の利益でしか測られていないことの象徴ではなかったか。研究者の未熟のせいにしてすませるような話ではなく(未熟のせいにしたのもノーベル賞受賞者だったのは皮肉としかいいようがない)、研究の価値をどこに見いだし、どう評価するかという、システムや風土にかかわる話だったはずなのに、あのときはノーベル賞級と先走りしちゃったけど今度は本物のノーベル賞だとばかりに、また(今度は正式に)もてはやす。

 科学の科学としての価値は、人間の暮らしやら自尊心やらの人間の都合とは関係なく、何かが何かとしてわかるところにある(それを「美しい」と言ってもよいし、だからこそ漱石が芸術について言う「非人情」にも通じると思う)。科学の価値として青色LEDがすごいのは、青色LEDが青色を発する理屈や仕組み、それが実現する物質の組合せがわかるところにあるのであって、青色LEDができたら便利だからではない。こちらを評価するのは、経済的な価値観であって、科学的な価値とは別の話だ(青色LEDを原理を知りたくて研究するのと、青色LEDがあれば便利だからそれを作ろうと研究するのと、どちらが上というのでもない。経済的価値などどうでもいいというのでもない。ただただ、「人間社会的な利便を求めることを科学だと思っていては、科学は得られない」ということ)。

 研究環境が悪いから、研究費が足りないから、科学技術立国のためにはもっと厚く手当しないとという話も出てくるのだろう。でも、科学立国を唱える指導者たちは、「日本人は優秀だから、研究費や環境なんかなくても世界的な成果を出せるはずだ、成果を出せば、それで金も人も集まってくるだろうし、日本の力を見せた功績には報いますよ」とでも思っているんじゃないかと思えてしまうところもある(受賞を海外出張中に知らされた先生は、帰りはビジネスクラスにしていいと勤務先に言われたとか。逆に、別の受賞者の先生が、特許権料を大学に寄付していたという話もあったが、それだって、成果で研究費を稼ぎなさいという風土の表れだとすれば、「いい話」ですむことではない)。

 それに、世間的にも、苦労して成果をあげたという話のほうが受けるのかもしれない。

 それはともかく、研究費も好条件も、すでに成果があがっている人のところへ行きがちだというところを何とかしないと、ノーベル賞をとった研究者や研究室や研究分野に(つまりすでに成果が出ているところに)集まって、そこでさらに目立つ成果を出すことをせっつかれはしても、未知数の(お望みなら、だから次に賞を取れるかもしれない)ところに対しては、相変わらず薄いということになりそうという危惧もある。そういう研究であれば、「世界」で評価してもらって価値があることを証明できたら、こちらも評価しましょうということか? 結局、何よりかにより、いちばん必要な「インフラ」あるいは環境は、それぞれが自分で科学を科学として弁じる風土だと思う。

 なんてことを、この何十年、毎年(あるいは日本人が受賞するたびに)思っている(朝永振一郎先生か、せいぜ川端康成先生あたりまでは、おお日本人がと素直に喜べたのだが──ええ、ええ、今はひねくれていますとも)。要するに、受賞者はノーベル賞に値するほどの成果をあげたことがえらいのであって、ノーベル賞をもらったことがえらいのではない。その違いをあたりまえに理解した土台に立って成果をたたえる風土こそが、土壌のしっかりした「科学技術立国」に必要なものだろう。それがあたりまえにならないあいだは、毎年この時期は空騒ぎに憂鬱になるしかない……たかだか数十人の科学史の受講者を納得させることもできないのだから、その非力やもどかしさも合わせて。

 受賞者の先生方は、「好きなことを研究しろ」とおっしゃっている。もちろん、そうすればノーベル賞が取れるという意味ではない。ノーベル賞を(あるいはそういう目に見えやすい評価を)気にして仕事を選ぶなとおっしゃっているのだ(と思いたい)。

 今夜は文学賞の発表とか。人を楽しませる成果で受賞するわけですね。もちろん受賞者個人に対しては何のうらみも悪意もない(日本人候補者の作品は何十年か前にいくつか読んで、おもしろい小説だと思ったし、こういう文体もいいなと思った)。それが誰であれ、あらかじめおめでとうございます。これで物理学賞関連ニュースは終わりかな。それにしても、世の中に絶えてノーベル賞のなかりせば、秋の心はのどけからまし──またしてもよう言うわでした。