2014年6月26日木曜日

「まじめにUFOの研究」というニュース

 朝のニュースを見ていたら、そういう小ネタを流していた。フランスの研究組織が行なっているという(記憶のみなので、以下も含め、必ずしも正確な再現ではありません、悪しからず)。

 このことに「まじめにUFOの研究」といったタイトルをつけたり、またそのように報じたりすれば、この「UFO」は一般に、「宇宙人」あるいは「宇宙人の乗った乗り物」という意味でとられるだろう。それが今のUFOという言葉の一般的な使い方だからだ。

 でも、たぶん紹介された組織が研究しているのは、本来の意味でのUFOだろう。つまり未確認飛行物体。未確認だから、いったい何なのか確認しようとしている。もちろん、まじめに。地球の上空で見られた飛行物体がいったい何かということで、結果は熱気球かもしれないし、ただの風船かもしれないし……ということ。確認されていないものを確認するという、しごくまっとうな作業だ。しかしその仕事を「まじめに宇宙人を研究している」と聞こえるように報じるのはずるい(もちろん、本当の意味で宇宙人をまじめに研究している科学者はいくらもいるが、それは今回とはまったく別の話)。画面を見ただけでは正体不明の飛行物体の画像をただ流し、「星とは違うわ」という目撃者の感想をただ流すだけで、調べた結果が何だったかには触れない(元のニュースがそうだったのだとしても、それをそのまま流しただけといって正当化できることではない)。

 参加している研究者の「信じているとは言えなくても、可能性はゼロではありません」というような言葉も引用されていたけれど、これも(訳やまとめが正しいとして)、そういう引用のしかたでは、ああこの人は宇宙人がいると思ってそれを調べているんだなととられるだろう。「可能性がゼロではない」→「可能性がある」→「いる」→「あれがそう」というふうに拡大解釈が進んでいく。むしろ、「この映像が宇宙人の乗り物だとは信じてはいませんが、宇宙人はいないとは言えません」のようなことを言っていたと考えるほうが、筋は通る。もちろん、「宇宙人はいない」とは誰にも言えない。でも、「いないとは言えない」ことをもって「いる」とは、やはり誰にも言えない。そこが往々にして混乱する。

 同じ局は、かつて別の番組で、同様の研究調査(もしかしたら今回と同じ団体?)を取り上げた番組を作っていたはず。そのときは、未確認のものを確認するというまっとうな扱いをしていた(もちろん地球上の自然現象あるいは地球人による人為現象という答えになる)。それを知ってか知らずか、どうせ笑える小ネタだと言わんばかりのこの扱いはひどい。UFO=宇宙人という日常的な感覚ができてしまっていることに乗っかって(編集サイドもアナウンサーも、UFO=宇宙人という誤解を共有しているということかもしれない)、その誤解に基づいて揶揄し、下手をすると活動の中身を歪曲してしまうのだから。

 UFOもそのままの姿(=確認されていないもの)と見れば科学の対象になる(前回の引用を参照のこと)。その先にありもしないものを想定すれば、小説でも夢想でも、それなりに楽しいものができて、それこそ虚構(ひいては芸術)の威力だろうが、その興(趣)にのみこまれ、そのままではない姿(=宇宙人の乗り物)のほうを元にして報道としてしまったのでは、本末転倒と言うしかない。

 これまた前回も引用した部分と重なるが、

「余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰れが見ても、誰に聞かしても饒に詩趣を帯びている。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探ぐりを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪るさが踏みつけにしてしまった。」

「詩趣」を科学に、「芸術家」を科学者にすれば、そのまま同じことが言えるのではないかと私は思っている。そこに「UFO=宇宙人の乗り物」という「余計な探ぐりを投げ込んで」、「願ってもない風流を」(と、あえて科学のことをそう言っておく)、誤解のばかばかしさが「踏みつけにしてしまった」と思う(ここの「入らざる詮義立て」は嘘か本当かという話ではない。現象以上の意味を投げ込むことだと思う)。ついこのあいだも(捏造かどうかが問題になる以前に)同じようなことをしたとは、番組の人々は思ってさえいないのだろう。今回の「ニュース」は、たかが小ネタ、まともに見ている人がどれほどいるかと言われればその通りなのだろうが、(議会の)ヤジと同じで、深く考えずに反応しているところに本性が表れるということでもある……結局私もそうなのだが。とかくこの世は住みにくい。