2016年4月25日月曜日

気象予報士の「空気感」

 天気予報を見ていたら、気象予報士の方が「冷たい空気感」とか「空気感がひんやりしている」とか、そんな言い方をしていて、あなたも「空気感ですか」とひっかかってしまった。

 現実感とか喪失感というような「~感」はあたりまえにあるし、「感」の造語力といえばそうなのだろうけど、近頃の「感」だらけには「違和感」を覚える。どうして「雰囲気」ではないのか。「ふんいき」か「ふいんき」かよくわからないから、いっそのこと「くうきかん」にでもしとうこうかとか、そういうことだろうか。あげくのはてに「やっちまった感ハンパない」などと言われると、お尻がむずむずして、居心地が悪くてたまらない(これも「アウェー感ハンパない」と言うべきか)。

 この類のことはただの一時の流行ならそのうち消えるし、何かの必然性、必要性があるならそういうものとして定着し、こちらもなじみさえするもので、いちいちひっかかったり、ましてや目くじらを立てて、「人のひる屁の感情をして……、おまえは屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える」(草枕、第十一節)ようなものだというのは承知しているが……。

 そんなことをわざわざ書こうと思ったのは、「空気感」という言葉にとっさに反応はしたものの、空気感を掴むのは気象予報士の仕事のようなものだなと思いあたったから。だから、流行の空気感とは違う雰囲気の「空気感」の使い方になったんだな。

「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(『草枕』第十三節、小説の最後)

「それが出れば(『空気感』は)画になりますよ」と、胸中の画面があるかはともかく、思ったしだい。まだ「違和感」は消えないけれど。