2014年8月30日土曜日

ハローキティは猫ではない

という風説についての記事を見た。何のことかと思えば、マグリットの“Ceci n’est pas une pipe”だった。最初は「キティは猫ではない」というのは、このマグリット風の洒落かと思って、その洒落がわからないという話かと思ったのだが……

余もこれから逢う人物を……ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。……画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。……間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。(『草枕』一)

私はとっさに、キティが猫であることにこだわることが、「人事葛藤の詮議立て」だと思ったのだけれど、やはりサンリオのほうが、無邪気(それもまた「非人情」の一種?)に楽しんでいるファンに、よけいなことを言ったということになるのかしらん。言わなきゃ猫かどうかの詮議立てもなかったのだろうから。むしろ、サンリオの身もふたもない見解に驚いてみせたほうが洒落になっている。

ただ、「あれは猫か」と正面切って聞かれれば、(科学的には)猫ではないと答えるしかないという面もある。そういう正しさが人々の夢を壊すというよくあるパターンの話なら、それはそれで注文をつけたくもなるけれど、今回は聞かれもしないのに訂正を入れたところが減点ということか(結局、「猫の擬人化」という、もっと身もふたもない事実を公式見解として表明せざるをえなくなったわけだし)。この話が、実はキティちゃんの絵でも着ぐるみでも、どこかわかりにくいところに、「これは猫ではない」と書き込まれていたことが判明したということならよかったのに。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。(同前)

……そういえば、今年もまた8月が終わるんだ。