2018年3月16日金曜日

つれづれなるままに、それではすまないことを

よんどころなく仕事を中断せざるをえなくなって、本を一冊読み通す機会を得た。読んだのは門井慶喜の『マジカル・ヒストリー・ツアー』。

 ミステリーが産業革命の産物という基調もおもしろかったけど、読んでいるときにあれこれふらふらと考えていることが、多視点の語りというところにぶつかったというのもおもしろかった。

 大したことではなく、むしろお粗末な感想なのだけれど、読んでいるとき、文字を追ってはいるものの、考えは逸れていて、何ページもめくってから、あれ、何の話だっけと戻っていくのだけれど、けっこう長いこと本に対しては上の空だったという繰り返しで、同じところを何度も読み返してなかなか先へ進めないということ。

 進めないながらも、思い当たっては元に戻ってでも本の話の筋はつける。自分の思ってたことはそれなりに区切りをつけたり、メモしたりでこちらはこちらで筋をつける。考えることはもちろん一つではない。

 こういう現象はもちろんこの本に限ったことではなく、むしろたいていの場合そうなのだけれど、そういうことをしていて多視点の語りというのに遭遇して、ああそうかと思った。

 ミステリーは謎解きのための情報の提示のしかたが難しいというのはわかっていた。犯人が自分の知っていることを語ればすぐに謎解きは終わってしまうし、語らなければ情報を隠したことになってしまう。謎を解く「探偵」の語りでは、探偵がなにかを考えて答えを見つけた瞬間に話は終わってしまう。そこで探偵を外から描写するワトソン君のような存在が必要になるという、これも言われるとなるほどと思う。

 歴史ミステリーになると、視点はそれだけではすまないということになるのだけれど、語りの視点がばらばらでありつつ一つの話としてまとまるというのが大事なところ。

 長いこと科学書の翻訳をしているうちに、SFをやってみたいとか、ミステリーを訳してみたいとか、思うことがあるのだけれど、これは大変な(不遜な)ことだぞと思った。科学やロジックといった点はそれなりにこなせても、他人が構想する並行するいくつもの語りの筋道を通し、しかも伏せるべきことは伏せ、一つの本に破綻なくまとめるというのはおおごとだぞと*。

わが画にして見ようと思う心持ちは[雪舟などよりも──引用者補足]もう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても寤めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。
『草枕』第六節

視点というのとはちょっと違うが、できた、書けたと思う感覚には通じるところがある。それぞれの視点が、ああ自分は(視点は/著者は)ここにいた!と思えて最後に全部が収まる。なみたいていのことではないけど、そういうこともしてみたい。してみたいけど、なかなかできることではない。とかくに……いやいや、ここでそれを言うのはおそれ多かろう。まとまって集中できないつれづれに。

 なかなか更新はしていないけれど、もう一つのブログ「翻訳をしているうちに」もよろしく。

* アッシャー家の崩壊について、年代が特定されていないことについて、それはしなかったのではなく、そうせざるをえなかったのだという解説があり、それはそれで納得できる。ただここでの関心で大事なのは、私は普段、そういうところで年代を補うとか、場合によっては編集者からそういう補足をしてはどうかと言われたりするのがあたりまえの翻訳をしているということだ。ついそういうことをして著者の意図を台なしにしかねないのだなと思った次第。