2016年8月26日金曜日

「オートマタ」を見た

劇場でやっているのに気づいたのが上映最終日で見逃していたのを、DVDで見た。どこまで書いていいのか悩むところもあるけれど、ネタバレ注意ということで……

人物像などの設定や画面の作り方は違っても、基本線は、『ブレードランナー』や、スピルバーグの「AI」に通じる話だが、この映画の話の筋やアクションは

「たかが機械のくせに」 
「そっちこそただの……サルのくせに」

という、これだけ書くと子どものけんかみたいなやりとりのためにあるのだと思った。子どものけんかじみてはいても、この問題には外せないという意味で、的を射たやりとりだ。

なおかつ、それでも人間と機械の違いは……というところは、アメリカ映画でも出てきそうな普遍性もある答えだけれど、それでも、スペイン(カトリック国)らしい——などと言うと怒られる?——感覚が基本にあるように思う。その基準もつきつめると怪しくなるのだけれど、たぶん、それがすっと収まる文化の上にできているということなのだろう。

それでも、ただのサルも、ただの機械も、それはそれで生きる道がある(この映画ではconscienceと言われているが*、「良心」と言っていいのかどうか——「やっかいよ(Muddy waters)」)、あるいはそれを持ってしまった。

『AI』がAIを主人公にしたとすれば、こちらは人間を主人公にしたAIもので、AIものとしてはよくできていると思う(一度見ただけでは読み取れないところもあるのだけれど)。


ところで、『ブレードランナー』はどっち?——続編は答えてくれるのだろうか。あるいはその問いが無意味だというところに『ブレードランナー』の優れたところがあるのだろうか。期待して待つしかない。

* むしろ、consciousness(意識)と言ってくれていたほうがわかりやすい文脈だったのだけれど……スペイン語ではconscienceもconsciousnessも同じ、concieciaと言うらしいので、英語の脚本でもconscienceになってしまったということかもしれない。あるいはヨーロッパ語の感覚では、conscienceもconsciousnessも、日本語にした良心と意識ほどの差は、外形的にも内容的にもないということなのかもしれない。もっとも、このシーンだけでなく、映画全体を見ると、やはりconscienceで良かったんだなという感じもする。要するに、consciousnessとconscienceは語形は変わっても、共通の語源の感覚を強く残しているということなのだろう。日本語にするときには、consciousness = 意識、conscience = 良心みたいな型があるから、違和感も感じてしまうということかもしれない。あえて言うと、どちらも「煩悩」だ。良心を煩悩などと言うとこれまた怒られるかもしれないので言い換えると……「生まれ出づる悩み」とでもしておこうか。悩みが生まれ出るというより、生まれ出てしまったことによる悩みという意味で。あるいは『草枕』の非人情に対する意味での人情……ということで、結局これも「草枕」。