2014年11月18日火曜日

恐怖が判断を促進する?

 科学のニュースは解釈のほうが主/目玉になるものだけれど、とかく科学の成果の人間的意味はとり難い。

 日本の研究者が、恐怖のような感情は萎縮作用で判断力を鈍らせるという定説に対して、逆のことを示す結果を出したという(プレスリリース)。赤のモノクロによる蛇の写真と青のモノクロによる花の写真を見せて、色の判断はどちらが早いかという実験をすると、蛇のほうの「赤」が早く答えられたというもの。つまり、怖いものを見たときの「赤」という理性による判断のほうが、抑止されるどころか、高まっているということらしい。

 実験そのものはシンプルで、一貫した結果を出していて、うまく考えられているように思うが、でも本当にそういう意味なのだろうか。おそれ多くもこんなことを言おうという気になったのは、実はこの記事の冒頭に

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」といわれるように、理と情は対立するものと考えられています。

とあったことが大きい。私にとっては、何よりの「つかみ」だ。もっとも、せっかくの知・情・意の三すくみから、「理」と情の対立だけを取り出してそこに還元するのはもったいないとも思うし、何より、この記事からうかがえる「情が理を助ける」という含みにも危うさを感じる。科学(理)は情をさしおいてこそ科学なのに。

 きっかけはともかく、実験結果は、写真に対して、「蛇・赤」ととっさに(「怖い」以前に、反射的に)反応しているとも解釈できる。もちろん蛇に対して、たとえば「逃げる」という反応も反射的に起きるものだろうから、そのほうが早いというのは理解できるし、色を変えても一貫して蛇のほうが早いというのも、うなずける。ただそれは、恐怖の「感情」が促しているということなのだろうか。むしろ、反射的な危険回避行動(逃げろ)と一体になったものと言うべきではないのだろうか。ひとまず、とっさに危険回避して、後からじわっと「ああ怖かった」という情がわいてくる……のではないか。

 その怖いを自覚したら、「足がすくむ」のような抑制効果になることもある。ここで否定されているという「定説」はそちらのほうを言っているのであって、この実験が示したこととはすれ違っているような気がする。

 出典は知らないのだが、聞きおぼえの句に「情の極まるところ、理の極まるところなり」というのがある。これも、この句を使いたい人は「情をつくしてそれに従えば結局は理にかなった行動になる」というようなことを言いたくて、情をとことん高めた先に理もあると言いたいのだろうけれど、私はむしろ、「極まるところ」はさかのぼったほうにあると見て、理も情も根源は同じだけれど、そこから別の、場合によっては対立する方向に分化するというふうに考えたほうがいいような気がする。

 「何かやばいもの・逃げたほうがいいもの」(と意識してさえいないかもしれない危険回避の反射的反応)が根源で、そこからたとえば「これは蛇である」という理と、「怖い」という情が分かれる(さらには意識して「逃げろ」という意も)。理のほうを先へ進めれば、「これは実は危険な蛇ではない」といったことにもなるかもしれないし、情のほうを進めれば、「恐怖で身動きできない」状態というのが生まれるかもしれない。逆に、理と情が融和するところ(対立しないところ)は、そもそも理や情が存在する以前のところなのではないか。この記事の実験は、そこを見ているように思う。

 逆に「定説」のほうは、とっさの反応が間に合わなくて、理の部分で「あ、蛇だ」、情の部分で「怖い」と思ってしまったときに、意のままにならず「足がすくんで逃げられない」となってしまうといったところを見ているのではなかろうか。今回の説と定説のどちらが正しいかというより、両者は見ているところが違うということだろう。

 ひとまず、(本能的な)「回避すべき危険」を察知したときの反応のほうが早いと解すれば、そこまでは大いに納得できる。その反応こそが情だと科学的に定義するというのなら(それで科学者間で合意がとれるなら)、科学者のいう情はそういうものだと理解するしかないが、だからといって、それ漱石が言っている情だという保証はないし、私はそれは別物だと思う。

 もっと気がかりなのは、やはり、科学の内容が、人間的な意味のほうを前に出して伝えられるという傾向。伝えなければいけないという「空気」や、そうなると、人間的な意味がつかないと伝わりにくいという事情はわからないことはないが、そんな事情にひっぱられて浮足だってしまっては、伝えることの値打ちが下がってしまう。最初から人間的な意味をねらうのであればなおさら、実験の構想そのものに紛れ込む偏りのチェックが必要になる。

 そして実験は、やってみて、公表して、つっこみが入って、それをクリアする工夫が重ねられて、一連の実験の歴史(場合によっては伝説?)になる。だから、伝えられる側も、即決的に人間的な意味や価値を求めないとか、最後に位置する人だけ見ないとか、そういうふうに臨まないと、ということで、悪しからず。