2020年4月11日土曜日

非人情の占い

こんなことを言うのも何だけど、12星座の星占いを二つ、恒常的に見ている。あえて言えば、当たらないことを確かめるため……? もちろん、当たるはずもないけれど、いいことが書いてあればうれしいし、よくなければ気分が悪いのもまた現実。そういうふうに感情に作用するところが占いの効果だ(良し悪しとは別にして)とも言える。そして人は往々にして、感情に対する作用あるいは効果の存在を、「当たる」というふうに、これまた感じるのだろう。

それはそれとして、この二日ばかり、おもしろい——これも時節柄(2020年4月)憚られる言葉かも——例に出会った。たとえば、「誘いを受けたら乗りましょう、イベントに積極的に参加しましょう」とか、「あてがなくても出かけてみると、チャンスに遭遇するかも」とか、今やってはいかんと言われていることを積極的に勧める記述が続いたのだ。

無料の毎日の占いなので、それが手間ひまのかかった占星術だと思う方がどうかしているのであって、誰かが適当に書いているのだろうとは思うのだし、ふだんにしても、たとえばあっちとこっちで言うことが矛盾してるなどと、つっこみながら見ているのだけれど、それにしても、ちょっと「ずさん」すぎないか? これを「書いて」いる人は、その言葉では「当たる」とか「当たった」とか、占いに想定される効用があるとはまず思いようがないとは思わないのだろうか。それとも、まともには受け取られないことを前提に、どうでもよい原稿を「書いて」いるのだろうか。

こんなご時世だから、そんなことは言ってはいけないというのではない。もしかしたら、こんなご時世だから、あえて無視して出かけていくことが大事なのだという主張をしようとしているのかもしれないけれど、ただそういう決意が見えるような書きっぷりには見えない。いつものように、何かの文案の中から、ほとんど無作為に(あるいは時節とは別の何らかの配慮をもって)見つくろってきて並べているような「何とか運」の羅列だ。

別にそのことを責めようというのではない。それはもともとそういうもの(システム)なのだから、水準や効用を求めたり、そもそもまともに相手にしたりする方がおかしい。向こうもこちらも、その日のルーティンをこなしているにすぎない。それはわかっている。わかっているけれど、あまりにも「相変わらず」だというところに、少々別の興味がわいた。それほどこの占いの書き手は、今の人間の世界の事情を知らないのだろうかと。

たぶん、占いコメント選択プログラム(今ならAI?)みたいなのがあって、蓄積され、用意されているコメントを(無作為に、あるいはもしかしたら星座に設定された傾向に応じた重みづけをして)選択したものを並べているんだろうな。機械的に機械翻訳の出力を使って、それが変な言葉であることを気にしていないかのような結果になっているのと似ている。そう考えないとつじつまが合わないほどの「非人情」(不人情ではない)な記述だということが、今の世情に照らして初めてわかった。そうか、占いといえども、必ず人の事情や都合をいちいち考える(あるいはそこにつけこむ)わけではない。無料の、手間ひまをかけられない占いは、何らかの占いアルゴリズムに沿って、占いフォーマットに沿った文言を、非人情に、淡々と吐き続けるのだ。

「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」

「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」

「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」

「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」

「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」(『草枕』第9節)

確かに。おみくじだ。開いたところをぱった開けて、開いたところを今日の占いとして置いておく。それを誰かが読む。おみくじを(AIに?)代わりに引いてもらっているということか。当たるかどうかなんか「どうでもいいんです」。その日その日、そのときそのとき、「ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白い」のだ。そしてそれが、人情の世界で人の感情(人情)に作用する……そうしてはからずも、このご時世のおかげで、私が見ている占いAIはこうしてチューリングテストに不合格となった?

占星術は科学史上では無視できない存在で、近代的天文学の先祖に当たる(ただ近代天文学は、親の意向にさからって、親の目指すものとは違う方向に進んだ不肖の子——親の立場からすれば——ということだけれど)。つまり近代科学と無縁な存在ではないし、自然を人間の力で理解し、その理解を表現しようとする意志は、科学を生んだ意志とも通じている。その占星術が、現代の機械化文明にあっては、非人情という、占いの根本を否定するような占い方(占いの言葉の作り方)をも生むということか(あくまでシステムの仕組みを推測しているだけです。占いコーナーの仕組みが実際にそうであることが解明されたというのではありません)。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。(『草枕』第1節)

今の住みにくさは「不安」のことかもしれない。それにしても、そんな余裕があるものかと言われそうなことかな? とかくに人の世は住みにくい。けれども、だから非人情の芸術だと漱石は語ってくれる。

2019年10月5日土曜日

簡潔な文章

「日本代表、サモア戦で8強進出決定の可能性なくなる」という見出しを見た(日刊スポーツ2019/10/3)。何の間違いもない、ちゃんとした日本語の、見出しにはよくある類の短文だ。でも、何かおかしい。

日付も重要で、この時点では日本対サモア戦はまだ行なわれていない。だから当然未来の話だと、もののわかった人は読みとるのだろうし、もちろん書く側もそう思うのだろう。でも、私は一瞬、「サモア戦は終わったんだっけ」と思い、「その結果日本の8強進出はなくなった」んだと読んでしまう。

未来の話だという前提に立っても、「サモア戦の結果しだいでは、8強進出はなくなる」という意味にとれる。サモア戦で負けたとしても、その時点で2勝1敗で、もちろん確実に8強進出というわけにはいかないだろうが、「可能性がなくなる」ということはないだろうに……と思う。どういうことか──そういうふうにあれこれ思わせて本文を読ませるという意図でこうしたというのなら、見事ということにもなる見出しだ。

そうなると本文を読まざるをえない。読んでみるとこの文には第三の意味がありうることがわかった。要するに、「サモア戦で8強進出を決める」可能性がなくなったということだった。サモア戦に勝って3勝になっても、それだけではまだ確定はしないということ。振り返ってみれば、確かにこの見出しはそういうふうに解釈できる。間違ってはいない。けれども、この見出しが意図してのことかどうかはさておいても、そこには微妙な違いどころではない何通りかの意味が生まれてしまう。書き手は往々にして、自分の書く文を自分の意図だけで読んでしまい、そうとしか読めないという落とし穴にはまる。逆に、この見出しを一読してこの第三の意味に取れるとしたら、本文に書かれたようなことをすでに考えていて、そのことを了解している人に限られるのではないか? つまり、本文がわかっているから見出しもわかる。

一般には簡潔な文(あるいはその積み重ねの文章)が求められる。長い文は一般にそもそも読んでもらえない。頭から読み進めていくとちゃんと意味は通じていたとしても、読んでもらえないからにはその意味の通じようがないので、長いということじたいが「読みにくい」のだ(長い筋の通った文を読み通し、その意が読み取れて、逆にその緻密な構成に感嘆してしまうような長い文やその積み重ねの文章もあるのだが)。文は簡潔に読みやすく。それが一般則だ。

できることなら頭から読んでいくとそのまま意味(文章を把握するための情報内容)が通じる(定まる)のが望ましい。文章まるごとがそうとはいかなくても、全体を把握するための個々の文や段落単位では。文章の頭にある、短い見出しから本文の内容が推測されるどころか、本文まで読んでやっと見出しの意味が定まるなんて、文章としてはとんでもない話ではないか。それは見出しの宿命みたいなものだし、それもまた(ちょっとおもしろい)言語ゲームだとはいえ、ちょっと面倒くさい。

逆に、読み進めてすんなり意味が定まるようにするためには、言葉を足さざるをえないことが多い。簡潔に読みやすくしようとした文が長くなり、それが曲折にもなるだろうし、結果として、読みにくいと感じられてしまう。もちろん見出しとしては使えない。

簡にして要を得るというのは理想だが、簡にすぎると解釈の余地が多すぎて意味が定まらない(あえて定めないというのは言語ゲームの指し方としてありうるにしても)。定めるために要を補うと、長くなり、冗と感じられる──そもそもこの文章は行ったり来たりしていて、ちっともすっと通らないじゃないか、なんてね。

簡潔に、読みやすく。それでも読みやすさを求める操作が高じると読みにくくなる。どこへ越しても読みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる……といいのだが。

2019年3月19日火曜日

広がる言葉

といっても、ほめているわけではなくて……「○○さん死去、3か月前の『最期の仕事』」という記事のタイトルを見て、ああこれはもうしょうがないんだなと思ったという話。この用法はもちろんこの記事だけのことではなく、ことの起こりはどうか知らないが、もう単純な「誤字」ではないと思われるほど広まっているように思う(出典はおさえていないけれど、「最期の年月」のような「晩年」の意味で使った例さえ見たことがある)。この言葉に限った話でもないし、今さらのことでもないし、例によって、言葉はそういうふうにも変化するということにすぎないのだけれど、使える範囲を少しずつ広げて、いつのまにか、ずいぶんと離れたところまで来てしまう。それもまた変化を伴う継承なのだというのは頭ではわかっているのだけれど。

「最期」というのは、一生の「最後の瞬間」ということだ(「最期の瞬間」では意味がだぶる)。「最期の仕事」は臨終のときにしていた仕事ということになる。それが「3か月前の」だから、こちらは違和感をおぼえて、気になってしまう。

 この記事を確認のためにあらためて検索しようとして、「最期の仕事」という検索語を入れたら、Googleには、「もしかして“最後の仕事”」とチェックされたので、Googleも違和感を抱いているらしい。一方、試しに「最後の仕事」で検索してみると、同じ記事がちゃんと表示されたから、「最後」に「最期」も加えて検索する配慮もしているらしく、その流れを受け入れざるをえないと思っているらしい。妙なところでGoogle検索の言語表現に対する応対に親近感を持ってしまった(Googleにしてみれば、こちらとあちらのクライアントたちの意図を忖度しつつヒットする範囲を広げているだけにせよ)。

 限定された意味の言葉を、限定されているがゆえにインパクトがあるところを、これはよさそうと思って使いたくなるのか、使える範囲がじわじわとか、あっというまにか広がって、それについては守旧派の耳目には違和感を残しながら定着する。そのおかげで、もともとの限定されているがゆえのインパクトは薄まり、あたりまえの言葉になってしまい、言葉としてのありがたみもなくなっていく。変化するのはしかたがないとはいえ、惜しいと感じるのはそこだ。言葉のありがたみ。

 惜しいと思うあまり、そういう薄まった言葉を、そういうふうに受け取られたくなくて、意地でも使いたくなくなる*ことさえある。勝手にそうなっているとはいえ、「意地を通せば窮屈だ」。

 逆に、言いえて妙とか、なるほどとか思い、あるいは単純にあははと笑い(これは違和感ゆえでもあるが)、場合によってはまねしたくなるような新しい言い方/使い方もときどきある。ぴったりはまる例ではないけれど、忘れがたいということで挙げると、水玉螢之丞の作に、「ございました」を「ござうました」→「ござ馬した」と誤入力、誤変換してしまったという話がある。バカボンのパパが「まちがってしまったのだ、でもおもしろいからこれにするのだ」とかいって、文書の中にある「ございました」を「ござ馬した」に全置換して、「これでいいのだ」と言う。

 キーボードではiのとなりにuがあるので、この誤入力はわりと起きる。さすがに「ござ馬した」にはならないけれど、家族との連絡であえて「ござうました」のままにして送るのは、出典を共有しているがゆえの家庭内ジョーク──それにしても、めったに使わないからギャグになる。

 誤入力や誤変換に基づく新表現は一つのジャンルになるくらい、よくある例にもなっているようで、おかげで、学生が書く文でも、誤字の間違い方があまりにおかしいときは、本当に誤字なのか、あえてそうしているのかわからず、チェックするのを迷うことさえある。

葛湯を練るとき、最初のうちは、さらさらして、箸に手応がないものだ。そこを辛抱すると、ようやく粘着が出て、攪き淆ぜる手が少し重くなる。それでも構わず、箸を休ませずに廻すと、今度は廻し切れなくなる。しまいには鍋の中の葛が、求めぬに、先方から、争って箸に附着してくる。詩を作るのはまさにこれだ。(「草枕」第六節)

誤入力のような手応えも何もなしにできてしまったところにおやっと思ってひっかかり、それを新たな表記や言い回しにしてしまうというのも、こととしだいによっては、ここで漱石が言うような本来の意味での「詩」と呼んでいいとさえ思う。誤入力にかぎらず、そういう新たな言葉の組合せ=詩もあってよい、どころか、それこそそうやって言葉は豊かになるのだとも思う。他方、そういう生まれは詩的な言葉も、世間に受けて、普及して定着したら、何のことはない言葉になってしまうのだろう。何年も経って、定着している言い回しの源をたどってみると誤変換が元だったんだって、ということになったりするのかもしれない、とかいって、とかいって。

 それにしても、すでにある限定された言葉を、なしくずしに(最後の瞬間→死ぬ間際→死を間近にした何日/何か月→晩年)広げて薄めるのとは違うと思う。もともとあった限定や差し障りの(歴史的な)感覚も覚えておいて、思い出したい/思い出してほしいとも思う。誤変換表現がおもしろくなりうるのは、誤変換だということがわかっていればこそで、それが進んで定着すると、そもそも間違いだということも知らず、もともとそうだったと思い込んだのではしゃれにならないし、場合によっては由緒正しい方が間違いだ(単純に古い)と思って、全置換して消し去ってしまうようなことになりかねないところがこわい、というか、うれしくない……とかくに人の世は住みにくい。

* 最初は「使いたくなる」にしていた。そういうところって「ないことなくない?」みたいに混同してしまう。

2018年9月10日月曜日

「かげの向きがかわるのは地球が回るから」?

又聞きで恐縮ながら、

最近、こんな投稿がSNS上で話題になっていた。小学3年の理科のテストで「時間がたつとかげの向きがかわるのはなぜですか」という問題が出され、「地球が回るから」と答えたところ、バツをつけられたというのだ。
教師がテスト用紙に赤字で書き込んだ正解は、「太陽が動くから」。「学習したことを使って書きましょう」というコメントも添えられていた。

という話を聞いた(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57443)。

確かにそのコメントはまずいと思う。ただ、それをまずいと思う私の理由は、引用した記事の筆者とはちょっと違うかもしれない(つきつめれば同じところに行き着くことになるとしても──なお、以下の話は引用した記事の筆者が取り上げた意図とは基本的に無関係で、引用した出来事に対する私的な感想であり、同記事そのものについて論評しているのではありません)。

まず、その小学生が、このことによって、「地球は回っている」という知識が間違いで、「太陽が動いている」方が正しいと、この先もずっと思うことになるのだとしたら、ひどい話だ。その子がこの後、地球は回っているという話が理科の授業で出てきても、それはおかしい、あのとき太陽が動いていると習ったのにとしか考えられなくなるとしたら、先のコメントは本当にひどい一言だと思う。学生相手にそういう影響を与えそうなコメントを書かないように気をつけないと、と自戒もこめて思う。

でも、私がこの話に気を引かれたのは──当のSNSでの話の流れを見ていないので、少々ためらいながら書いているが──「かげの向きがかわるのは太陽が動くから」という全体は間違いではないということ、また、生徒の「かげの向きがかわるのは地球が回るから」という答えは、間違い、あるいは少なくとも「不正確」だということ、が理解されているか? と思ったからだ。教えたことと違うからバツというのは教え方としては論外だけど、「地球が回っているから」という答えでは不正確という意味では、この生徒の答えはやはりバツなのだ(少なくとも正解とは言えない)。

影を作るのは光である以上、その影の向きの変化は光源の向きの変化による。だから「太陽が動いているから」は、この場面では正解。それを、地球の動きを持ち出して説明するのであれば、正確には「地球が回っているために太陽の方向が変わるから」としなければならない(この問いの先に「なぜ太陽は動いているのですか」といった問いがあれば、それに対する答えは「地球が回っているから」で正解だが、ここで問われているのはそれではなかった)。

たんに「かげの向きがかわるのは地球が回るから」では、「地球の動き」という天体力学的現象と、「影の動き」という光学的現象との関係が不鮮明だ。もしかしたらこの子は、影が地球にくっついていて、地球が回るとそれと一緒に影も回ると思っているのかもしれない。それでは間違い(不正確)だし、この子の考えがそうではないことは、この答えからはわからない。その意味でも、この答えは不正確なのだ。

「正しい知識」もどういう意味で捉えられているか、とか、正しいことが正しいと言えるのは、ある限定された場面だけで、そこを超えて持ち出すのは適切ではないといったことは、もっとわかってもらうべきことだと思う。その点では、「太陽が動いているから」というこの場面での「正解」を書いていればいいというものでもない──機械的におぼえたことを書いているというのではつまらないし、これを最後に理科が嫌いになって、それきりになれば、やはり「太陽が動いている」のところだけが残ったのではさらにひどいかもしれない──のだが、「この授業の範囲での正解」を謳うのは、ある限られた意味でのこととはいえ、「科学的」とも言える。

もちろん、教育としては、だから無条件にバツでいいとか、習ったことをちゃんと使えと言えばすむ話ではない。いちばんの問題点は、そういう科学的な理屈のつけ方(思考の筋道)を、先生が(それこそコメントででも)教えることができていないということだろう。憶測だけれど、さらに教えても理解されず、「地球は回っているのは正しいのだから正解だろう」としか言われないのだとしたら、さらに不幸だ(私がいちばん心配する事態はそこかもしれない)。でもそれだからこそ、「地球は回っている」は正しいけれど、正しい知識でも正しく使わないと正しい推理はできないよという科学思考法的助言は必要だ。

「地球が回っている」ことは正しくても、何の問いに対してもその答えで正解になるわけではない。「いいじゃん、少々不正確でも、小さい子どもなんだから」というのが人情かもしれないが、それはやはり違うと思う(「不正確だというならせめて△くらいやれよ」というのなら私も同意する──△は非人情の科学の世界にいささかでも人情を関与させようとする媒体かもしれない──が、△を認めると、たいていの答えが△になってしまうという心配もする)。私はこの「違い」が理解できないのは、少なくともその違いに意味があることを理解しないのは、子どもだけでなく(ひょっとすると子どもよりも)、大人もそうだろうという危惧さえ抱いている。

木瓜(ぼけ)は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔かい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。
──『草枕』第十二節

来世にでもそうなれるのなら、それはそれでありがたい話かもしれないが、現世では、相手や世論や政治に理解してもらえなくても、結果としての知識より、筋道と検証(「真直な短かい枝に、真直な短かい枝」を「ある角度で衝突」させること)こそが科学だというところは譲れないと思って教えることができる教師なしに科学教育は成り立たない。

今回の件は、先生がそういう姿勢を示さなかった(らしい)ところが科学教育論的な反省材料。でも「子どもが正しいことを言っているのに、バツにするのはおかしい」という話でもない。「バツにする理由をきちんと語れてない」点がまずいのだ。結果としての知識が正しいか、間違いか、だけで考えてしまいがちな現実こそがいちばんの不幸なのだと思う。

「地球は回っている」は(それが適用できる場面では)正しいけれど、「かげの向きがかわるのは地球が回っているから」は不正確。その非人情の世界での違いは、語っても、教えても、なかなかわかってもらえない。(智に働けば)とかくに人の世は住みにくい……

2018年7月1日日曜日

「〜分前」と「強弱」


 昔、フランス語を教えていた20世紀末、時刻の表現が通じない、というより理解されないことに気づいた。教科書には、たとえば6時50分のことは、「sept heures moins dix」(7時マイナス10分、つまり「7時10分前」)と表すと書いてある。なぜわざわざそんな言い方をするのか、「six heures cinquante」と言えばいいのにというのが学生の言い分。

 実は私は当初、なぜそれが疑問なのかがわからなかった。もちろん自分では日本語でもそういう表し方はあたりまえにするからだ。でも、それは通じにくくなっているらしい……なぜかと考えて思い当たったのが、もうあたりまえになりつつあった(なっていた?)、デジタルの時刻表示。

 アナログの針表示なら、「6時50分」の針の形を見て、短針が指す最寄りの位置を見て、まず「7」と読む。そこより手前なので、「○○分前」と読む。これは時計の見方として自然だ。わざわざ遠い方の6を探して読む方が不自然だ。アナログ式の時計ができてからこのかた、それがすべてではなくても、十分に通用したし、まぎれもなかった。そういう事情を説明しつつ、今はデジタルの時代だから、デジタル表記をそのまま読んで、6時50分はフランス語でも「six heures cinquante」と表すようになるでしょう(もうなっているかも)と説明することにした。

 なんて昔話を思い出したのは、「「7時10分前」は何時のこと? 「6時50分」VS「7時9分」で大激論」という記事を見たから(https://www.j-cast.com/2018/06/27332399.html?p=all)。こうなると、もうデジタル表記しか認めないという人々が多くなったということなのだろう。「7」と言われたとたん、もう「7時○○分」以外は考えることはない、わざわざ「6」に戻す選択肢はありえないと考える人々が増えているということだと思う。

 しかるべき典拠はもう不明だが、「強弱」についても似たような話を聞いたことがある。たとえば「100強」と「100弱」は、古典的にはそれぞれ「100プラスアルファ」と「100マイナスアルファ」のことだが、今は「100を大きく超えている」と「100を少し超えている」と解する人が増えているのだとか。これもすでに「100」と言われているものを戻して「90いくら」にするのは不合理で、「100いくら」の「いくら」の部分の多少の差と解するのが、素直で合理的な読み方だということなのだろう。

 言いたいのはどちらが正しいかということではない。デジタル表記しか考えられない人が増えれば、そういう理解が出てくるのは当然のことで、アナログの針表記をふまえた表現を知っていて、それに慣れている人が少数派になり、ゆくゆくは死滅してしまえば、その後の時代には、「7時10分前」と言われて「6時50分」と思う人はいなくなる。そうなれば、それが「正しい」日本語として確定するということなのだろう。

 でも、今はその両方があり、両方が生まれるいきさつは、「かつて」はアナログの針表示が時計としてあたりまえだった時代の理解があり、そこで生まれた表現を、後の人が別の意味に使うようになったということ。前からの人も今の理解の理屈をふまえて、そういう言い方があるのだろうというのを理解し、後の人も、その表現の歴史をふまえて、そういう言い方があるのだということを理解するのが、言葉の歴史(進化)を理解するということだと思う。どちらが正しいか、はっきりさせようという話になるのは好まない。

いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく澌礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。長閑な春の感じを壊すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。この極めて安価なる気燄家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
──『草枕』第5節

 私も無意識に新しい言い方を取り入れて使うこともあるとはいえ、意識の上では、今となっては古い言葉を、この親方のように、場にそぐわないと言えるほどの力もないまま、私は使う──それで誤解されることもあるだろうが、そのときはそれは誤解だよと言うしかないだろう。それは好みの問題、選択の問題で、それが「正しい日本語」だからではない。ただ、新しい言葉づかいがあることを日々学習しつつ、そこに簡単に乗るつもりもない。単に「それが好きではないから」にすぎなくても。

 その新しい言い方は、ただ生まれたのではなく、ましてや昔から正しかったからそうなっているのではなく、古い言い方を誤解したとか、誤用したとか、あるいは不満足なところを「改良」するとか、様々ないきさつで、何らかの意味で古い言い方から生まれた、変化を伴う継承だ。そこには当然、そうなる前の古い言い方がある。定着するにしても、古い言い方と占有率を競って、そちらの方が残るというプロセスを通じて定着するものだ。それが──一方に抵抗勢力あっての──「進化」という現実だと思う。

 今の人は言葉を知らないと言って否定するのも了見が狭いが、逆に、言葉は変化(進化)するものだから、つねに新しい方が正しく、古い言い方を持ち出すのはやめてくれと否定するのも了見が狭い。今はどちらの表現もあるのだということを知り、状況に応じてそれが理解でき、できることなら使い分けるようにすることが、言葉を豊かにするということではないかと私は思う。わかりにくければ、わかろうとすることが大事だけれど(もちろん古い側も新しい側を)、わかりやすさだけを目指してわかりにくい言葉づかいを避けるのもどうかと思う。残らないものはどうせ残らない。でも、だから使わないようにするというのも違うと思う──そんなことを言っても、ただわかりにくい、場違いな文章を書いていることにしかならない、要らない文章になってしまいかねないけれど。とかくに人の世は住みにくい。

2018年3月16日金曜日

つれづれなるままに、それではすまないことを

よんどころなく仕事を中断せざるをえなくなって、本を一冊読み通す機会を得た。読んだのは門井慶喜の『マジカル・ヒストリー・ツアー』。

 ミステリーが産業革命の産物という基調もおもしろかったけど、読んでいるときにあれこれふらふらと考えていることが、多視点の語りというところにぶつかったというのもおもしろかった。

 大したことではなく、むしろお粗末な感想なのだけれど、読んでいるとき、文字を追ってはいるものの、考えは逸れていて、何ページもめくってから、あれ、何の話だっけと戻っていくのだけれど、けっこう長いこと本に対しては上の空だったという繰り返しで、同じところを何度も読み返してなかなか先へ進めないということ。

 進めないながらも、思い当たっては元に戻ってでも本の話の筋はつける。自分の思ってたことはそれなりに区切りをつけたり、メモしたりでこちらはこちらで筋をつける。考えることはもちろん一つではない。

 こういう現象はもちろんこの本に限ったことではなく、むしろたいていの場合そうなのだけれど、そういうことをしていて多視点の語りというのに遭遇して、ああそうかと思った。

 ミステリーは謎解きのための情報の提示のしかたが難しいというのはわかっていた。犯人が自分の知っていることを語ればすぐに謎解きは終わってしまうし、語らなければ情報を隠したことになってしまう。謎を解く「探偵」の語りでは、探偵がなにかを考えて答えを見つけた瞬間に話は終わってしまう。そこで探偵を外から描写するワトソン君のような存在が必要になるという、これも言われるとなるほどと思う。

 歴史ミステリーになると、視点はそれだけではすまないということになるのだけれど、語りの視点がばらばらでありつつ一つの話としてまとまるというのが大事なところ。

 長いこと科学書の翻訳をしているうちに、SFをやってみたいとか、ミステリーを訳してみたいとか、思うことがあるのだけれど、これは大変な(不遜な)ことだぞと思った。科学やロジックといった点はそれなりにこなせても、他人が構想する並行するいくつもの語りの筋道を通し、しかも伏せるべきことは伏せ、一つの本に破綻なくまとめるというのはおおごとだぞと*。

わが画にして見ようと思う心持ちは[雪舟などよりも──引用者補足]もう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。頬杖をやめて、両腕を机の上に組んで考えたがやはり出て来ない。色、形、調子が出来て、自分の心が、ああここにいたなと、たちまち自己を認識するようにかかなければならない。生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝ても寤めても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。
『草枕』第六節

視点というのとはちょっと違うが、できた、書けたと思う感覚には通じるところがある。それぞれの視点が、ああ自分は(視点は/著者は)ここにいた!と思えて最後に全部が収まる。なみたいていのことではないけど、そういうこともしてみたい。してみたいけど、なかなかできることではない。とかくに……いやいや、ここでそれを言うのはおそれ多かろう。まとまって集中できないつれづれに。

 なかなか更新はしていないけれど、もう一つのブログ「翻訳をしているうちに」もよろしく。

* アッシャー家の崩壊について、年代が特定されていないことについて、それはしなかったのではなく、そうせざるをえなかったのだという解説があり、それはそれで納得できる。ただここでの関心で大事なのは、私は普段、そういうところで年代を補うとか、場合によっては編集者からそういう補足をしてはどうかと言われたりするのがあたりまえの翻訳をしているということだ。ついそういうことをして著者の意図を台なしにしかねないのだなと思った次第。

2017年11月14日火曜日

「ブレードランナー2049」を見た

 途中までは「そんなこと?」という感じで、ちょっとがっかりしかかったが(ある程度話が進むと、途中でそのへんでもう終わるのかなと思ってしまうほど長い──苦痛になるわけではないが)、そう思わせといてというところに見事にひっかけられてしまった感じ。

 前作の切なさにはちょっと欠けるかなと思うが、それはそれ、アンドロイドもあたりまえというか、一人前になったということなのだろう。あの映画、このアニメと重なるものがあって、本当の主要登場人物は、これまでのAIやアンドロイドがらみの作品なのかもしれない。そうやってアンドロイド(AI)も一人前になった(理解が進んだ)跡というか。

 個人的にはぜひ欲しいと思っている、すべてがそこに向かうかのような頂点の台詞はちゃんとあったし、そこで途中で感じた謎が解決するし、この一本の映画としては、よく作ったし、よくできていると思う。

 前に劇場で見たのが「メッセージ(Arrival)」だったから、同じ監督の映画2本で今年はおしまいということになりそう、たぶん。