2014年12月13日土曜日

それってネットの(スマホの)弊害?


 先日は「ニュース深読み」で「ながらスマホ」を取り上げたかと思うと、今度は「クローズアップ現代」で、読書かネットかという話。テレビも、私が属している本も、ネットのせいで旗色が悪いのは確かだけど、それでネガティブキャンペーン? テレビだって、そのおかげで人が本を読まなくなったと言われてたんじゃなかったっけ。

 「ながらスマホ」が悪いのは、たとえば公道を周りに注意しないで歩くことが悪いのであって、それはスマホに特有の悪ではない。スマホがない時代にも、周りを見ずに公道を通る人はたくさんいたし、今も、スマホを持たずに道路の邪魔をする人は相当にいる。これは公道を通るときは、ちゃんと周囲に注意が払える状態で通りましょうという、いつの時代にも言える話(ほんとにそうなってほしい)。スマホやネットの弊害を云々したいのなら、それじゃないと言えないことを持ってこないと。

 だからというわけか、ネット検索ばかりで読書しない人がまた増えたという話。しかも読書しない学生の小論文は、自分の意見がないんだとか。読書する人のほうができがよいとか。これも、メディアの使い方が上手か下手かという昔からある話で、本を読むからうまいのではなく、本でもネットでも上手に使えるからうまいということ(できた小論文が優れているとして)。「本も」使える人(ネットも使える)と、本を読まない(けどネットも大した使い方をしていない)人を比べて、本を読むほうがいいでしょ? というのはいかにもずるい。

 ネットがない時代だって、ちゃんと書ける奴もいれば、教科書・参考書丸写ししかしない奴もいれば、果ては他人のレポート丸写しの奴も(さらには他人にレポート書かせる奴も?)いたわけで、当時はみんながちゃんと書けていたのに、ネットのせいで力が落ちたというわけではないと思う(残念ながら実験はしていないが)。そんな日常的な光景を忘れてしまっているらしいのは、それもネットのせいで記憶力が悪くなったから?

 解説に呼ばれた立花隆が、これはネットの弊害の問題ではなく、メディアを使いこなせているかどうかの問題で、ネットには本にはない可能性があるという方向のことを言っているのに、でも本を読まないと困りますよねみたいな話に強引に持って行ってしまっている。そういう番組を作りたかったんだから、そうなるのはしかたないにしても、じゃあ、その前に問題をちゃんと立てておかないと(立花隆が呼ばれたのは、何万冊という厖大な蔵書があるからということらしいが、それだけの本を活用するには、Googleなみの検索能力が要るはずで、むしろ立花隆がネット検索的に本を使っているということを示しているのかもしれない、なんてね)。

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。
「御這入りなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
『草枕』第九節(これもぱらぱら「めくって」見つけた)

 その後二人は小説の読み方について議論したあげく、主人公の言う「非人情」な読み方を試すという話になっていく。いいねえ。ネットならもっとそんな読み方ができるし、それもまた「読み方」だ。それで「面白い」ことは出てくるし、逆にそうやって面白いことを見つけられないなら、本を読んだからといって見つかるのを当てにはできないだろう。

 本じゃなきゃできないことがあるように、ネットじゃなきゃできないこともある。ネットではできないこともあれば、本ではできないこともある(拙訳のジョンソン『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』(日経BP社)の「セレンディピティ」の章には、ネットではセレンディピティが得られないという批判に対するまっとうな答えがある──やっぱりそう思うんだと共感した)。

 ネットから入る人が多いのなら、ネットの可能性や落とし穴を教え、ちゃんとした使い方を教え、その先に、こんなメディアもあるよとネット以外のものも見せて可能性を広げるという方向を与えるべきだと思う。たったそれだけのことを、どうして、本かネットかという問題にしてしまうのだろう。結論がどうのこうのというより、問題の立て方の粗雑さのほうが気になる。それこそ、そんな短絡的な発想になるのも、ひょっとしてネットのせい? それとも、本を読ませなくなったテレビのせい?

 本があるところへネットが加わった。基本的には、それは豊かになったということだ。本の時代には本の豊かさを生かしきれなかったとしたら、テレビの時代にはテレビの豊かさを生かしきれなかったとしたら、ネットの時代にネットの豊かさを生かしきれないとしたら、そういうものを手にした人間のお粗末さということになるだろうが、まあ、そうならないように、新たなメディアができた中での旧いメディアの生きる道も見つけたい(というより、そうしないと暮らせない──とかくこの世は住みにくい)。

2014年12月5日金曜日

「インターステラー」を見た

 「コンタクト」では残る側だったマシュー・マコノヒーが今度は飛ぶほうだというので、これはぜひと思って見に行った。私にとっては「当たり」(人類の子孫のためと言いながら、掲げる旗が星条旗なのはどうかと思うが、どだいがアメリカ映画だし、NASAがやることなんだからしょうがないか)。結末にかけて不満がないわけではないけれど、あの終わりに持っていくには何かを作らなければならないし、現にないものを作るとなれば、無理もしないことには進まないし、その終わりは良かったと思う。

 それにしても、「コンタクト」がこの映画につながっているのは間違いなく、あの映画はやはり響くものが相当にあったんだなとあらためて思うし、マシュー・マコノヒーは「コンタクト」に出てよっぽど飛ぶほうをやりたかったのかな、などと思ったりもする。そういう「褒め方」は本作に対しては失礼なのかもしれないけれど、私にとってはやはり「コンタクト」なしには、この映画は見ることも、咀嚼し消化することもできないだろう。

 何はともあれ、DVDだかブルーレイだかが出たら何度か見て、あらためて、あああれはこういうことだったのかと思いたい。

 映画館を出たら、目の前のビルの谷間に満月間近の月が大きく出ていた。月より向こうの世界に出て行く映画だが、他の天体とこの大きさで向き合うのは、十分にSF的で、いつもは映画館に入る前と出るときの世の中の明るさの違いにちょっと違和感というか、それこそ落差を感じるのだが、今日は月がきれいに輝き始める頃具合になって、この映画帰りには、かえって喜ばしかった。