2016年11月3日木曜日

視力検査

眼鏡を直してもらいに眼鏡屋へ行って、検眼をしてもらった。例によって、ひらがなが並んでいる表を読むのだけれど、今まで何も考えずにしていたことが、実は「変」なことなのではなかったかと、はたと気づいた。

提示される(あるいはハイライトされる)文字の列を読み上げる。それで相手はわかってくれるのだが、検眼が進む中で、検査する人が、「今『○○○○』というふうに見えていると思いますが……」と、映っている文字列を読み上げたとき、こちらは一瞬とまどってしまった。

実は、私はそれを今までずっと、習慣として右から読んでいたのだが、(若い)検眼士の人は文字列を左から読んでいたのだ。向きが逆なので、こちらはとまどった(見れば理解はできるけれど)。ということは、逆に、こちらの読み方はきっと相手をとまどわせていたわけだ(やはり見ればわかるから、とくにチェックされたわけではないけれど)。

この年になってやっと気づいたということは、これを左から読むという習慣は、そんなに古くはないのだとは思うし、たぶん右から読む人も一定数いて、検眼する方も、織り込みずみで対応してくれているんだろうとも思う。でも、考えてみれば、あの文字列は「横ならび」なのだから、「横書き」を読むように左から読むのは当然といえば当然で、私のようにあれを「縦書き」と認識して右から読む方が「変」なのかもしれない。

あれを縦書きと認識するのは、大昔の視力検査表は、まずは縦方向に読まされたという経験に由来するものと自分では想像する。けれども横一段分を提示されれば、今はそれを横書きと認識するのがあたりまえになっていてもおかしくはない。部屋に飾る額の文字が横一列の場合、左から書かれているのを見ることも多くなった。それが当然と感じる人は、ああいう文字の並びを縦書きとして見ることはないのだろう。

もちろん、どっちが正しいなどと言うつもりはない。対応してくれた検眼士も私の意図を読み取ってくれている。こちらも向こうの読み方は理解できる。ただ「習慣」が違うというだけのことだ──だがおもしろい。あの一瞬のとまどいは、アラビア語の言葉にアルファベットやカナで読み方が書かれているときに対応させるのに一手間かかるというのに似ている。

問題は……それでも私はこの先もあの文字列を右から読むだろうなということ。そう言えば、免許の更新のときの視力検査はどうだったっけ。今までとくに何も言われなかったから、両方向の読み方に対応できているということなのだろう。つまり、今はまだ両方向あることが許容されているらしい

でも、そのうち横書きなんだから左からに決まっているだろうと言われる、あるいはその前提で処理されるようになるかもしれない。そんなに先は残っていないのだから、余計な心配かもしれないけれど、古い方はどんどん少なくなるだけだから、右からはだめということになるのも、実はそう遠くないかもしれない。

少なくとも、プランクの言ったとされる、新しい真実が勝利するのは反対派を納得させることによってではなく、(古い)反対派がだんだんこの世を去って、新しい方になじんでいる人々の集団が大きくなるからだという見解に説得力がある例ではないかと思う。ただ一般的に言えば(ごまめの歯ぎしりながら)、今あるものの背後にかつてあったものがあることを忘れすぎではないかとも思う。

せめて、

春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。(『草枕』第1節)


という境地を目指すばかり。

2016年10月19日水曜日

「ある天文学者の恋文」を見た

 そろそろ上映が終わりそうなので何とか出かけて見た。「ニューシネマパラダイス」を見てああよかったと思ったような意味ではよかったと思うけれど、原題(Correspondence)と天文学者の話ということでかけた期待よりは、仕掛けが一回り物足りなかった感じもする。あの仕掛けに(これはこれで天文学らしくていいのだけれど)、もう一枚かませてほしかった。一回見ただけなので、肝心なところを見落としてしまったのかもしれないが……

 それと、あの論文は天体物理学ではなくて科学史の論文として扱っていればもっとよかったのにと思う。それでは「天文学者」にならないということなのだろうけれど。

 ついでに、「かに星雲」の「かに」はcrabだけど、「かに座」の「かに」はcancer。これはネタバレにはならないと思うが……


 余談。入場券を買うとき、料金表を見るとシルバー料金というのがあって、ついこの間、その対象年齢になったところだったので、それを頼んだ。証明書を出せと言われるかなと出そうとしているうちに、何も言われずすんなり割引料金の切符をくれた。疑いようもなくそう見えるのねと、ちょっとがっかり。こういう場合、身分証提示を求めるのも礼儀のうちか?

2016年8月26日金曜日

「オートマタ」を見た

劇場でやっているのに気づいたのが上映最終日で見逃していたのを、DVDで見た。どこまで書いていいのか悩むところもあるけれど、ネタバレ注意ということで……

人物像などの設定や画面の作り方は違っても、基本線は、『ブレードランナー』や、スピルバーグの「AI」に通じる話だが、この映画の話の筋やアクションは

「たかが機械のくせに」 
「そっちこそただの……サルのくせに」

という、これだけ書くと子どものけんかみたいなやりとりのためにあるのだと思った。子どものけんかじみてはいても、この問題には外せないという意味で、的を射たやりとりだ。

なおかつ、それでも人間と機械の違いは……というところは、アメリカ映画でも出てきそうな普遍性もある答えだけれど、それでも、スペイン(カトリック国)らしい——などと言うと怒られる?——感覚が基本にあるように思う。その基準もつきつめると怪しくなるのだけれど、たぶん、それがすっと収まる文化の上にできているということなのだろう。

それでも、ただのサルも、ただの機械も、それはそれで生きる道がある(この映画ではconscienceと言われているが*、「良心」と言っていいのかどうか——「やっかいよ(Muddy waters)」)、あるいはそれを持ってしまった。

『AI』がAIを主人公にしたとすれば、こちらは人間を主人公にしたAIもので、AIものとしてはよくできていると思う(一度見ただけでは読み取れないところもあるのだけれど)。


ところで、『ブレードランナー』はどっち?——続編は答えてくれるのだろうか。あるいはその問いが無意味だというところに『ブレードランナー』の優れたところがあるのだろうか。期待して待つしかない。

* むしろ、consciousness(意識)と言ってくれていたほうがわかりやすい文脈だったのだけれど……スペイン語ではconscienceもconsciousnessも同じ、concieciaと言うらしいので、英語の脚本でもconscienceになってしまったということかもしれない。あるいはヨーロッパ語の感覚では、conscienceもconsciousnessも、日本語にした良心と意識ほどの差は、外形的にも内容的にもないということなのかもしれない。もっとも、このシーンだけでなく、映画全体を見ると、やはりconscienceで良かったんだなという感じもする。要するに、consciousnessとconscienceは語形は変わっても、共通の語源の感覚を強く残しているということなのだろう。日本語にするときには、consciousness = 意識、conscience = 良心みたいな型があるから、違和感も感じてしまうということかもしれない。あえて言うと、どちらも「煩悩」だ。良心を煩悩などと言うとこれまた怒られるかもしれないので言い換えると……「生まれ出づる悩み」とでもしておこうか。悩みが生まれ出るというより、生まれ出てしまったことによる悩みという意味で。あるいは『草枕』の非人情に対する意味での人情……ということで、結局これも「草枕」。

2016年6月23日木曜日

分野を特化した機械翻訳

「先生、わたくしの画をかいて下さいな」と那美さんが注文する。……「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、春風にそら解け繻子の銘は何と書いて見せる。女は笑いながら、「こんな一筆がきでは、いけません。もっと私の気象の出るように、丁寧にかいて下さい」「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」「御挨拶です事。それじゃ、どうすれば画になるんです」「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」(『草枕』第十三節)

自分の仕事をこんなことに喩えるのはおこがましいのだけれど、手順や規則どおりに整えられた翻訳を、さらっとかける「一筆がき」とすると、「それだけじゃ画にならない」部分を読み取って、それを言葉にするような翻訳にしたい……なんてことを思ったのは、

2020年には日本語機械翻訳を実用レベルへ--MS、bbタワー、豊橋技大が協業

というニュース(CNET Japan)を見たから。これは「日本語から他の言語への機械翻訳については精度が低い」という現状をもっとよくしようということらしい。そのために汎用的に使えるものを目指すのではなく、分野を特化させることで、分野ごとに対応するのだという。なるほど。現実的な進め方だと思う。

 ただ、別のところ(「よろづ翻訳」)でも(何度か)書いたことながら、人は往々にして、ある領域限定のことでも、それが汎用的に正しいと思ってしまうらしい。分野がいろいろあるから、分野間のずれは見えるだろうし、一つの分野限定のものが一気に汎用的な存在になるとは言えないが、分野間に完成の時間差があれば、先行したものが先にある程度の影響力を持ってしまっているかもしれない。それに、そうしてできる「機械翻訳語」総体ができていけば、広い範囲での機械翻訳限定語が汎用化するということは考えられる。使う側も、機械翻訳に乗りやすい日本語を使うようになるだろうし、そのうちそれが「普通の」日本語になるのだろう。(外国語から日本語の場合も含め)機械翻訳に合わない/出てこない言葉は使われなくなって淘汰される……

 まさしくそれが適応とか進化とかいうもので、これからの日本語はそういうふうに進展していくのだと思えばいいのかもしれない。機械翻訳をあたりまえに使わなければならない人々がどれだけいるかということにもよるだろうが、機械翻訳はさらさらっと、一筆がきのように、ある領域の範囲内でかけるところを、予想以上に(作る方からすれば予想どおりに)うまく、それらしくかいてみせる。また、そうなりやすい日本語が、最初は機械翻訳に喜ばれ、そのうち日本語を使う人に喜ばれるようになる。すると、外国語から日本語に翻訳するときにも、そうした日本語の方が「自然な」日本語に見えてきて、こちらもさらさらっと一筆がきのように決まるパターンが使われるようになる……だろうか。

 言葉の対応ということで言えばそうなのだろう。でも、それこそ汎用的なものが難しいことにかかわるのだろうけれど、中身の対応となると、たぶんそこからはみ出すものが多くなるだろう。私とて、相手方の中身をすべて掌握して、それを日本語にしてますなどとはとても言えないし、読み切れなかったところがあっても、それはなかったことにして、形式的な対応に落とし込むということは、正直言ってある。でも、どうせ完璧にはできないのだから求めないというのではなく、対応できるところを広げていこうという方向性は必要だろうと思う。機械であれ、人間であれ。

 私は機械の学習力はそれができるだけのものになりうると思っている。場合によっては「春風にそら解け繻子の銘は何」くらいのことを吐き出しても驚かない。むしろ、ある程度の機械翻訳に人間が慣れてしまうと、機械翻訳が多くの人がなじむ水準より「上」の水準の翻訳をしたとき、それを「誤り」と見て、「正解」に直そうとするのではないかという危惧さえする。

人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。(同)


機械(汽車)が人間の個性を押しつぶすと言えば、もはや紋切り型の文明批判だろうが、画工は「積み込まれる」と言うものの、人はやはり「乗る」というところにも着目しなければならない。機械翻訳であれ何であれ、文明の利器に乗り、それに合わせるように動くことで、それなりの利益を得る。そこは否定できない。ところがそのうえで、文明が柵を設けると同時に、逆に人間の方が文明に柵を設けることもあるだろう。文明に対して、人間が「これよりさきへは一歩もでてはならぬぞと威嚇かす」というわけだ。それが安全装置になっていることもあるのだし、闇雲に文明が進めばいいとも思わない。結局は機械は現実の人間のまねをするしかないし、文明も現実の人間が作る範囲内にしかないだろう。けれど/だから……というわけで、とかくに(機械には?)人の世は住みにくい。

2016年5月31日火曜日

「イミテーション・ゲーム」を見た


 遅ればせながら見た。胸が痛くなるけど、「共感」(失礼?)もした。ただ、けっこう評判になったようだったけれど、人は何を評価したのか、この映画はどういう映画だと思われたのかというのはよくわからない。私はこの映画の非人情にはまったが、それはむしろいやがられそうな内容だと思うのだが。「ビューティフル・マインド」が受けたのと同じ感覚なのだろうか(もっとも、「ビューティフル・マインド」がどうして受けたのかもよく知らないが)。

 逆に作者はどう思ってこれを作ったのだろう。タイトルは内容をよく暗示していて、ちゃんと符合していると思うのだけれど、結びの詞書きは力点の置きどころが違うように思う。あからさまに言葉にして饒舌に語ればいいとも思わないが、明言されることと隠された意図が大きく違うとすれば……それもまた本作らしい仕掛けで、そこで言われていないことを察しろということか。あるいは大仰なまとめでカモフラージュしたということか。カモフラージュというほど隠されているわけでもないことからすると、不気味に感じた観客に、そんなに怖がることはないと安心させるためか。

あの女の所作を芝居と見なければ、薄気味がわるくて一日もいたたまれん。義理とか人情とか云う、尋常の道具立を背景にして、普通の小説家のような観察点からあの女を研究したら、刺激が強過ぎて、すぐいやになる。現実世界に在って、余とあの女の間に纏綿した一種の関係が成り立ったとするならば、余の苦痛は恐らく言語に絶するだろう。余のこのたびの旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものはことごとく画として見なければならん。能、芝居、もしくは詩中の人物としてのみ観察しなければならん。この覚悟の眼鏡から、あの女を覗いて見ると、あの女は、今まで見た女のうちでもっともうつくしい所作をする。自分でうつくしい芸をして見せると云う気がないだけに役者の所作よりもなおうつくしい。『草枕』第十二節

 カンバーバッチは「シャーロック」で初めて見て、それ以外は知らないのだけれど、その延長でこの映画に採用されたのかと思うくらい、通底するキャラクターで、その意味では「はまり役」だと思う。

 無理に草枕にすることもないのだろうけど、非人情物ということで、悪しからず。

2016年5月10日火曜日

そりゃそうだ

さっそく「女の子はアインシュタインなんか知らなくていい?」という記事が目に入ってきた。Flipboard経由のHuff Post(さらにその元は恵泉女学園大学「学長の部屋」)だけど、この種のニュース閲覧ソフトは、表示する記事を選ぶときに、こっちがどこかに書いていることまで見ているんだろうか。

それはともかく、みんながみんな理数系にナイーブであることを美徳と考えているわけではないのは当然のことなのだけれど、それでもこうやって形になっているのを見ると、うれしい。理数系にナイーブではないというのは、理数系の方が上と考えるということでもなく、理数系もそうでないのも両方ちゃんととらえようというところがさらに良いと思う。今回は草枕ではなく、宮沢賢治の
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
に引きつけておこう。でも、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」のところから引いたのは、この言葉が単なる利己心の否定ではなくて、草枕流の非人情の世界だとも思うから。

さらに言うと、「女の子」の話でもない。上の話では歌が引き合いに出されていたので、それに乗ると、サム・クックの「ワンダフル・ワールド」という名曲は、似たような心情/信条を歌っている。この種の「雰囲気」は、どこにでもあったし、ある。

がんばれ、菊川怜

 菊川怜(敬称略、以下同)が番組で映し出された方程式を解けるかとふられて、朝飯前と答えたとか、それを聞いて相方のキャスターが不愉快になったと冗談とはいえ返したとかの話を見た(実際にその番組を見たわけではない)。

 どうでもいいような話だけど、理数系にナイーブであることが美徳である今の世の中では、たとえ工学部出身であっても、「ちょっと自信ないですう」と答えておくのが無難で好感を抱いてもらえる(はずの)ところなのに、「朝飯前」と答えたところがえらい。結果として、そういう奴はかわいげがないというメッセージが発せられているとしても、方程式が解けることは恥ずべきことではないというメッセージをきちんと出しているのだから(自慢すべきことでもないと言われそうだが、ニュートラルにぼかせば、結局恥ずかしがっているように見えてしまうだろう)。どういうわけか菊川怜は好きだったのだけど、そういうことだったのかしらん。


 意図してのことかどうかは知らないし、何やかや、いろいろ含めて「演出」なのだろうけれど、また、この話が「聞いて、聞いて」とばかりにネットに上げられる話になるというところからして、方程式が解けるのはいやな奴という感覚を受けてのことなのだろうけど、そういう役を受けて立てる菊川怜は、やっぱり見どころがあると私は思う。これも前項に引き続き、「それが出れば画になりますよ」だ。大きなお世話だろうけど、がんばれ、菊川怜。

2016年4月25日月曜日

気象予報士の「空気感」

 天気予報を見ていたら、気象予報士の方が「冷たい空気感」とか「空気感がひんやりしている」とか、そんな言い方をしていて、あなたも「空気感ですか」とひっかかってしまった。

 現実感とか喪失感というような「~感」はあたりまえにあるし、「感」の造語力といえばそうなのだろうけど、近頃の「感」だらけには「違和感」を覚える。どうして「雰囲気」ではないのか。「ふんいき」か「ふいんき」かよくわからないから、いっそのこと「くうきかん」にでもしとうこうかとか、そういうことだろうか。あげくのはてに「やっちまった感ハンパない」などと言われると、お尻がむずむずして、居心地が悪くてたまらない(これも「アウェー感ハンパない」と言うべきか)。

 この類のことはただの一時の流行ならそのうち消えるし、何かの必然性、必要性があるならそういうものとして定着し、こちらもなじみさえするもので、いちいちひっかかったり、ましてや目くじらを立てて、「人のひる屁の感情をして……、おまえは屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える」(草枕、第十一節)ようなものだというのは承知しているが……。

 そんなことをわざわざ書こうと思ったのは、「空気感」という言葉にとっさに反応はしたものの、空気感を掴むのは気象予報士の仕事のようなものだなと思いあたったから。だから、流行の空気感とは違う雰囲気の「空気感」の使い方になったんだな。

「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。(『草枕』第十三節、小説の最後)

「それが出れば(『空気感』は)画になりますよ」と、胸中の画面があるかはともかく、思ったしだい。まだ「違和感」は消えないけれど。


2016年3月26日土曜日

「良くない言葉」を吐く人工知能

をめぐる記事がいくつか目に入る。たぶんおもしろがっているのだろう。星新一の「ボッコちゃん」は古典になり、MS-DOS時代には人工無能が評判になったように、この手のことは「ウケる」。こちらの言うことをほとんどおうむがえしにして答えているだけなのに、何か人間を相手にしているような感じがする。現代の人工知能は厖大なおうむがえし用データを使って、単純なおうむがえし以上のことに見えることをするが、人間のすることをしているという点では巨大なおうむがえしだ。人間が忘れていることまでおぼえているから、新しいことをしているような感じまでしてくるかもしれない。

 人工知能は人間のしていることをまねして学習するのだから、今までなかったものとして恐れることはない。恐れるべきは、それがまねするお手本である人間だ。人間がひどければひどい人工知能が生まれる。それで生じる不都合は、人工知能のせいではなく、人間自身のせい。アシモフのロボット三原則とか、映画「オートマタ」のプロトコル(規定)とか、人工知能/ロボットやその製作を規制するルールもあるが、人間の側にもお手本としてのプロトコル(子どもの前で汚い言葉は使わないとかの)が必要ということなのだろう。

 眺め渡していると、こんなところに出くわした。

「ささだ男に靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を咏んで、淵川へ身を投げて果てました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。(『草枕』第二節)

確かに和歌が出てくるところでつい「おいおい」と思ってしまうが、それを「思いがけない」と思うのは、相手がそういう学習経験をしているはずがないと思っているからで、「こんな婆さん」だろうと何だろうと、この地の伝承世界で育てばそれに属する言葉は口をついて出る。逆にそういう言葉を通じて、「相手」の積んできた学習経験、ひいては「人柄」を推定する。それはどのみち、こちらの都合や思惑や予断に合わせてくれるわけではない。そういう相手としてまずは受け止め、必要なら、そういう相手とのつきあい方を考えるしかない。

 人工知能を作ったものは「神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣りにちらちらするただの人である」(同、第一節)。「作る」に加えて「使う」も入れるべきだろうが、人工知能が人間に近くなればなるほど(そうすべきかどうかはまた別のお話)、人間世界であったことが起きてくる。人間に似すぎていて怖いというのもあるかもしれないけれど、その場合、怖さの元は相手よりもむしろこちらにある。良くない言葉を吐く人工知能は、人工知能が着々と成長していることの証なのだ。何せ子どもは汚い言葉を使いたがり、子どもの成長は速い。

 それにしても、前の投稿からあっというまに半年か……