2015年6月7日日曜日

猫の挨拶まわり

 猫が最期を迎えかけている。もう動く気もなくなったようだが、ちょっと前の昨日までは、こんな体でよくそんなに動き回れると思うほど、家の中をあちらへ行っては見回し、しばらく横になっては、また思い出したようにこちらへ行っては見回ししていた。ああここで遊んだとか、お世話になったところにご挨拶とか、擬人的に見ればそんなことをしていた。

 実際には、朦朧とした頭で、ふだんしていたことを残った力でできるかぎりしているということなのだろう。猫が懐かしむとは思わないが、そういうなぞりのような行動を人間が意識すると懐かしむということになるんじゃないか。

眼の届くところはさまで深そうにもない。底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。(『草枕』第十節)

猫を見守りながら、あいまの気休めに開いたところにそうあった。この猫にも「往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ」。

 何も言わない猫だし、擬人的に思い入れるしかないけれど、これも涅槃経かなと思ったりする。諸行無常、それでも、残るおまえたちは怠らずに努力せよ……

 ポール・サイモンの American Tune の最後のほう、でもやっぱり明日も働いて、僕はちょっと休もう(というより安らぎを得よう?)としているみたいな歌詞も思い浮かぶ……なんてことを言ってると、じゃあ休んでいいよと言われてしまいそうだけれど。

 冬のあいだのお気に入りの私の布団までたどり着いて、6月7日朝5時半頃、永眠。享年十五歳。合掌。