2013年7月18日木曜日

「地に足がついた」宇宙開発


 この何日かで、宇宙エレヴェーターは20年以内に実現する!や、無人の自己複製機能を備えた探査機が近傍の生命探しに行く計画という記事を見た。早急に火星に人を送るよりずっと現実的な(まだ計画・構想段階で、クリアすべき課題は多々あるとはいえ、それでも「地に足がついた」と言ってもいい)話だと思う。
 宇宙に乗り出すとなれば、当然どこかで足を浮かせなければならないとしても、理念的には蓄積、底上げといったことが必要だろう。拡張する領域の事前探査、資源を送り出すためのいろいろな意味で費用効果の高い方式の開発・実施、さらには出先での資源調達法の開発は不可欠で、しかもその足場を組むような準備作業のために、何十年、何百年……という時間がかかるだろう。近くの恒星へ探査機を送る計画では、アルファケンタウリまで40年という、信じがたいほどの短い時間での飛行を構想しているというが、到達した中継地点で自己複製して拡散していく構想本体は、数百年から数千年で何千、何万という探査機ができて銀河に広がることを考えているらしい。それがデータを送り返してくるのを探知して……となると、さらに時間がかかる。
 そういう規模の中で、それでも足下から始めるしかない。自分は結果を見ることができないことのために構想・計画することが、この方面の話には不可欠になってくる(なかなか死ななくなる人間は、結局それなりの成果を見てしまうようになるのかもしれないし)。
 もう一つ、飛び出すことができるとなると、着地することを忘れて飛び出してしまうことになりがちなので、気をつけましょう(ときどき、高いところから飛び出して飛んだと思ったとたん、しまったと思う夢を見る;)。

2013年7月4日木曜日

知っていることは知っている


 別の場所のトートロジーの話に入ることだけれど、そちらではすでに別の材料で同じようなことを書いているので、この際こっちで……
 少し前になるがこんな記事を見た。「ちゃんと(システマティックに)考える」と「直観的に(ヒューリスティックに)考える」の二通りの処理のしかたがあって、「自分が知っていること」と「知っていないとわからないと思うこと」との差が大きいと、ちゃんと考えざるをえないけれど、差がない(または小さい──要は知るべきことは自分はちゃんとわかっていると思っている)と、直感的な処理に走るのだとか。「直感的には」その通りだと思う(つまり私はこの問題についてよく知っていると思っているというわけだ)。人は知っていることは知っているし知らないことは知らない(知らないという事実も含め)。だから人は必ず「自分はすべてわかっている」(と思ってしまう)というお話。
 昔、打ち上げ直後のスペースシャトル・チャレンジャー号が人々の目の前で爆発した後、世論は計画続行、中止の二つに割れ、その論拠もいろいろ出ていたが、どちらの立場からも「彼らの死を無駄にしないために」という論拠が挙げられていたという記憶がある。もちろんこの件にかぎらず、いろんな大事件でこの種の立場の分かれ方は出てくるものだが、私はこのとき、人々の判断は演繹的なのではなく、まず正しいと思う結論があって、論拠はそれに合わされる(だから同じ「事実」が正反対の主張の論拠とされる)という現実を刻み込まれたし、結局トートロジーなどというものにひっかかる遠因になっているように思う(もちろん直感的に)。どんな事実を前にしても、その事実は自分の立場を補強するものとして解釈することができるので、人はいったんとった立場を容易には変えられない……
 ここで挙げた記事も、説得するという脈絡でこの主題が取り上げられていて、反対の立場の人の思い込みは強固なので、こちらの立場を(情緒に訴えて)述べるよりも、情報や知識の正確さに目を向けさせるようにするほうが効果的だという話になっている。もっと言うと、とはいえ自分の立場だって正しい絶対の保証はないのだし、またいくらちゃんと考えたって正しい結果になる保証もないのだから、結局のところ説得とは結果よりも過程が大事だという話になっている。とにかく(直感的な)思い込みからいったん抜けるルートに乗せるということに意味があるというわけ。
 人間の都合(立場)に左右されないような回路を確保しようとしているという意味で、科学的な話だと思う(私は科学の価値をそこに見ていて、科学のいろいろな方法や約束事もそのためのものだと思っている)。