2013年7月4日木曜日

知っていることは知っている


 別の場所のトートロジーの話に入ることだけれど、そちらではすでに別の材料で同じようなことを書いているので、この際こっちで……
 少し前になるがこんな記事を見た。「ちゃんと(システマティックに)考える」と「直観的に(ヒューリスティックに)考える」の二通りの処理のしかたがあって、「自分が知っていること」と「知っていないとわからないと思うこと」との差が大きいと、ちゃんと考えざるをえないけれど、差がない(または小さい──要は知るべきことは自分はちゃんとわかっていると思っている)と、直感的な処理に走るのだとか。「直感的には」その通りだと思う(つまり私はこの問題についてよく知っていると思っているというわけだ)。人は知っていることは知っているし知らないことは知らない(知らないという事実も含め)。だから人は必ず「自分はすべてわかっている」(と思ってしまう)というお話。
 昔、打ち上げ直後のスペースシャトル・チャレンジャー号が人々の目の前で爆発した後、世論は計画続行、中止の二つに割れ、その論拠もいろいろ出ていたが、どちらの立場からも「彼らの死を無駄にしないために」という論拠が挙げられていたという記憶がある。もちろんこの件にかぎらず、いろんな大事件でこの種の立場の分かれ方は出てくるものだが、私はこのとき、人々の判断は演繹的なのではなく、まず正しいと思う結論があって、論拠はそれに合わされる(だから同じ「事実」が正反対の主張の論拠とされる)という現実を刻み込まれたし、結局トートロジーなどというものにひっかかる遠因になっているように思う(もちろん直感的に)。どんな事実を前にしても、その事実は自分の立場を補強するものとして解釈することができるので、人はいったんとった立場を容易には変えられない……
 ここで挙げた記事も、説得するという脈絡でこの主題が取り上げられていて、反対の立場の人の思い込みは強固なので、こちらの立場を(情緒に訴えて)述べるよりも、情報や知識の正確さに目を向けさせるようにするほうが効果的だという話になっている。もっと言うと、とはいえ自分の立場だって正しい絶対の保証はないのだし、またいくらちゃんと考えたって正しい結果になる保証もないのだから、結局のところ説得とは結果よりも過程が大事だという話になっている。とにかく(直感的な)思い込みからいったん抜けるルートに乗せるということに意味があるというわけ。
 人間の都合(立場)に左右されないような回路を確保しようとしているという意味で、科学的な話だと思う(私は科学の価値をそこに見ていて、科学のいろいろな方法や約束事もそのためのものだと思っている)。







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