2013年6月21日金曜日

ケプラーの転用

  ケプラーが故障して新たな系外惑星探査ができなくなったものの、そのケプラーで別の方法で惑星探査ができるかもというが出ている。その話を、その時点で可能なことは限られていても、それを開くことで次の扉も見えるという「隣接可能性」の考え方で説明しているもある。

 あの「はやぶさ」もそうだったのだろうし、さらにその前の「アポロ13号」もそうだったのだろうが、「故障した、おしまい」ではなく、故障した状態で次にできることを探すというのは、工夫のきわみだと思う。もともと、難しいこと/できないことをできるようにしたところに工夫があったのだけれど(それもまた隣接可能性に出番があっただろう)、できたことができなくなったところで、残った設備の使い方の方向をまた換えて……というのがもう一段のひねりになっている。そういう話も気をつけて集めてみたいような気がしてきた。

 惑星探査をはじめ、宇宙の探査技術最前線の話と、隣接可能性を含めた新しいアイデアの生まれ方の話、それぞれの拙訳がこの夏出る予定。よろしく。

2013年6月17日月曜日

「お天気お姉さん」が終わっていた


 最終回はもう見ていたけれど、習慣で今週分(もう先週)のビデオを見ようかと思ったところで、あらためてああ終わっていたのかと思ってちょっと残念。不満は残るけど、楽しみだったし、楽しめた。

 不満はと言えば、冒頭のナレーションに入る「世のため人のため」というのがギャグや一方的な思い入れではなかったというところ。お天気お姉さんには、とことん非人間的な存在であってほしかった(それを通せばこそ、人間の役にも立てるという描き方であってほしかった)。でも、それでは人間世界で放送するドラマにはならないのだろう。

 「非人間的」というと言葉は悪いけれど、私はそれを、前項でも便乗させてもらった夏目漱石の草枕に出てくる「非人情の世界」に重ねている(これだってそのまま読めば十分悪い意味にとられるのだろうけど)。要は、人間の都合や思惑を離れた世界にあるということ。「非人間的」という言葉が悪い意味になるのは、あくまで人間世界の中での話。

 私も人間世界に生きている以上、人間世界の価値を立ててそれに沿うことはせざるをえないし、人間世界では人間世界としての生き方があるとは思っているけれど(「人の世が住みにくいからとて越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」)、それはあくまで人間世界のことで、人間ぬきの(非人間/非人情)世界の理もあり、人でなしの国は住みにくくても、それでもなお、だからこそ見えるものもあって、それを少なくとも目の端には入れておかないといけないと思っているということ(実は人間世界もその世界の中にあるのだから)。

 そして、その人間の都合とは無関係な世界に、科学は(科学の成果を人間に合わせて使うために人間の風味を加える前のエッセンスの部分は)連なっていると思っている(草枕では芸術の出番になっているが)。お天気お姉さんが、周囲の都合や希望とは無関係に自然現象だけを読むことでむしろ価値を(それを目的としないでいることで、かえって)現していくところに科学を見たかったということで、悪しからず。
 

2013年6月8日土曜日

ランニングのルール


 川べりを走りながらこう考えた。知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくに人の世は住みにくい……(漱石先生の『草枕』)
 皇居ランでマナーやルール決定というニュース。走っている者としては他人事ではない。そういうことを決めなければならないほど状況はカオス的にひどいということなのだろうし、決めるとなれば、それはそれでいろいろと大変なことがあっただろうと推察するけれど、「ルール」として明文化されると、そのために逆に困ることもある。要するにお互いよけいに窮屈になるということだ。
 走る側としては歩行者への注文もあるが(こちらではまだ人は少ないとはいえ、それでも、おしゃべりに夢中でなかなか道をあけてくれない歩行者にちょっとすみませんと声をかけると、びっくりされて「危ない」と言われたり、迷惑そうな顔をされたりのことは何度かある)、大の大人がどすどす走れば、それ自体が凶器になりうるのだから、走る側に相応の遠慮がないとまずいのは当然のことだろう。ただ、走る側のルールができることで、歩くほうは周囲への注意を払わずに歩いてもよいということにはなりませんように、と祈るしかない。
 だから歩行者のルールも作れと言いたいのではない。ルールなど決めなくても、走ろうと歩こうと自転車だろうと、一列だろうと横に広がっていようと、「公の道を通行する以上、つねに周囲に注意して、他人の行く手をふさいだり、危険な目に遭ったり遭わせたりしないようにしなければならない」という、あたりまえのことが理解され、実行されればいいだけのことだったのだと思う(実はルールがあっても同じことなのだが、明示的なルールができたことによって、この暗黙の前提はかえって忘れられる/無視されるのではないかという心配が先に立つ──立法の趣旨は忘れられ、外形的な規定だけが一人歩きするのが世の常だ)。
 その当然の前提がみんなでいつもできれば、走るのも歩くのも、一列でも横に広がるのでも、応分に楽しくできると思うのに……一人一人が自分の利益を最大にしようとすると、結局「みんな」で損をすることになるという、囚人のジレンマかな。あるいはもっと基本的に、自分が不注意になっているときはそのことに気づけない(だから誰もが自分はいつも気をつけていると思っている)という「誤りのパラドックス」か──我が心ICにあらねば(高橋和巳+小田嶋隆)、愚痴も出るということで、悪しからず。