2013年6月8日土曜日

ランニングのルール


 川べりを走りながらこう考えた。知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくに人の世は住みにくい……(漱石先生の『草枕』)
 皇居ランでマナーやルール決定というニュース。走っている者としては他人事ではない。そういうことを決めなければならないほど状況はカオス的にひどいということなのだろうし、決めるとなれば、それはそれでいろいろと大変なことがあっただろうと推察するけれど、「ルール」として明文化されると、そのために逆に困ることもある。要するにお互いよけいに窮屈になるということだ。
 走る側としては歩行者への注文もあるが(こちらではまだ人は少ないとはいえ、それでも、おしゃべりに夢中でなかなか道をあけてくれない歩行者にちょっとすみませんと声をかけると、びっくりされて「危ない」と言われたり、迷惑そうな顔をされたりのことは何度かある)、大の大人がどすどす走れば、それ自体が凶器になりうるのだから、走る側に相応の遠慮がないとまずいのは当然のことだろう。ただ、走る側のルールができることで、歩くほうは周囲への注意を払わずに歩いてもよいということにはなりませんように、と祈るしかない。
 だから歩行者のルールも作れと言いたいのではない。ルールなど決めなくても、走ろうと歩こうと自転車だろうと、一列だろうと横に広がっていようと、「公の道を通行する以上、つねに周囲に注意して、他人の行く手をふさいだり、危険な目に遭ったり遭わせたりしないようにしなければならない」という、あたりまえのことが理解され、実行されればいいだけのことだったのだと思う(実はルールがあっても同じことなのだが、明示的なルールができたことによって、この暗黙の前提はかえって忘れられる/無視されるのではないかという心配が先に立つ──立法の趣旨は忘れられ、外形的な規定だけが一人歩きするのが世の常だ)。
 その当然の前提がみんなでいつもできれば、走るのも歩くのも、一列でも横に広がるのでも、応分に楽しくできると思うのに……一人一人が自分の利益を最大にしようとすると、結局「みんな」で損をすることになるという、囚人のジレンマかな。あるいはもっと基本的に、自分が不注意になっているときはそのことに気づけない(だから誰もが自分はいつも気をつけていると思っている)という「誤りのパラドックス」か──我が心ICにあらねば(高橋和巳+小田嶋隆)、愚痴も出るということで、悪しからず。

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