2017年5月31日水曜日

「メッセージ(Arrival)」を見た

 今日ぐらいしか劇場で見るチャンスはないかもと思って出かけた。楽しみにして、時間をやりくりした甲斐はあった。

 映画が始まってから進む間に感じるひっかかりが三つ。二つは映画の中で解決し、もう一つは(数えようによってはこれも二つになるのだが)不信の中断に委ねるべきことかなと思っていたのだが、帰って原作を読んで解決した(地球人的なひっかかりはどうしたって残るけれど)。その部分も映画にしてほしかったかなという気もするが、そこまでやると、映画として整理がつきにくいのかもしれない。
 

 いずれにせよ、疑問を抱かせ、それを解決するようにできているから楽しめるんだなと思う。なるほどね、と思う。これは私にとっては大事なところ。
 

 原作を読まずに見てよかったと思う。原作より映画の方がいいというのではなく、映画を見て、原作を読むことで、原作のおもしろみもよくわかる。原作を先に読んでいたら、あまりよくわからず、だから映画も見ようという気にならなかったかもしれない──これでは原作をほめていることにならないのだろうか。もしかすると、原作を読んで不完全燃焼だったりすると、それでも映画を見たときに、ああそうかとわかってカタルシスになったりするのかもしれない。
 

 ともあれ、原作も(読みようによっては、プロット以外は映画とは別の話といっていいくらいだが)よくできている。この仕掛はこういうふうに使えるのかという「発見」もある。翻訳で読んだが、このテーマの話を翻訳するというのも大変というか、うらやましいというか。
 

 邦題のつけ方が難しいことは承知の上で言うと、この映画も(前の「ある天文学者の恋文」と同様、あるいはそれ以上に)、原題が肝だと思う。このタイトルがこうなるかというところが、この作品の象徴だろう。もしかしたら、原作にあって映画にない要所をこのタイトルで表しているのかもと思うほど(単なる私の見落としだったらごめんなさい)。この点では原作のタイトルのままよりも良いタイトルだが、映画じゃないと成り立たないタイトルでもある。原作の小説は小説として良いタイトルになっていると思うし。

 そのうえで第四の疑問。原作を知り、もちろん映画も一度見て、そのうえでまたこの映画を見るとどうなるだろう。よくできた映画は何度見てもおもしろいし、細部の発見や確認だけでもおもしろいのだけれど、この映画はまた少し違うような感覚があるような(もしくは肝心なところがなくなるような)気がする。まだ上映が続いて、時間があったらもう一度見たい。あ、パンフレット買うのを忘れてた。