2017年11月14日火曜日

「ブレードランナー2049」を見た

 途中までは「そんなこと?」という感じで、ちょっとがっかりしかかったが(ある程度話が進むと、途中でそのへんでもう終わるのかなと思ってしまうほど長い──苦痛になるわけではないが)、そう思わせといてというところに見事にひっかけられてしまった感じ。

 前作の切なさにはちょっと欠けるかなと思うが、それはそれ、アンドロイドもあたりまえというか、一人前になったということなのだろう。あの映画、このアニメと重なるものがあって、本当の主要登場人物は、これまでのAIやアンドロイドがらみの作品なのかもしれない。そうやってアンドロイド(AI)も一人前になった(理解が進んだ)跡というか。

 個人的にはぜひ欲しいと思っている、すべてがそこに向かうかのような頂点の台詞はちゃんとあったし、そこで途中で感じた謎が解決するし、この一本の映画としては、よく作ったし、よくできていると思う。

 前に劇場で見たのが「メッセージ(Arrival)」だったから、同じ監督の映画2本で今年はおしまいということになりそう、たぶん。

2017年11月11日土曜日

あるロトのCM

 妻夫木聡と新井浩文が、小泉孝太郎(社長)にビジネスの企画を説明している。新井が「リターンはざっと6億」と言うと、小泉が「すばらしい、で、見込みはどのくらい?」と尋ねると、新井は、まじめそうな、うさんくさそうな顔で、「社長がそんな細かいことを気にしちゃいけません」。これには笑った。

 売る方がぬけぬけとこういうことを言っていいのかというところはあるけれど、宝くじは(ロトでも何でも)、結局は損だという、これまた売る側(あるいは大量に買える側)の視点からの数学的正論より、話としては「おもしろい」ことは確かだ。私たち(?)はまさに、そんな細かいことを気にしないで、リターンの大きさだけを見て買うのだ。

たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」
 なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛の愁などと云う字がある。詩人だから万斛で素人なら一合で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。

 「草枕」ものとしては前回に引いた部分の(それももう1年以上前になっているが)次の一節。数学の頻度説確率論(無限回の試行を前提とする)の側に立って、宝くじはハイリスクハイリターンどころか、実はリターンを期待できないんだと「万斛の愁」を歌うのも一種の詩かもしれないが、「超俗の喜びもあろうが、無量の悲も多」いのは、むしろ、宝くじをせっせと買う側かもしれぬ(詩も画もない話に重ねるのは恐縮だが)。

 しょせんは「物欲しと、あこがるる」ものの、見当違いの求め方をしている素人の、一合ほどの愁に蓋をした能天気なのだろうけれど、それでもこのCMはおもしろい。それを売る側に言われているのも一合の愁ながら、思わず笑ったCMに、Our sincerest laughter/With some pain is fraughtと気取ってみたというお粗末。

2017年5月31日水曜日

「メッセージ(Arrival)」を見た

 今日ぐらいしか劇場で見るチャンスはないかもと思って出かけた。楽しみにして、時間をやりくりした甲斐はあった。

 映画が始まってから進む間に感じるひっかかりが三つ。二つは映画の中で解決し、もう一つは(数えようによってはこれも二つになるのだが)不信の中断に委ねるべきことかなと思っていたのだが、帰って原作を読んで解決した(地球人的なひっかかりはどうしたって残るけれど)。その部分も映画にしてほしかったかなという気もするが、そこまでやると、映画として整理がつきにくいのかもしれない。
 

 いずれにせよ、疑問を抱かせ、それを解決するようにできているから楽しめるんだなと思う。なるほどね、と思う。これは私にとっては大事なところ。
 

 原作を読まずに見てよかったと思う。原作より映画の方がいいというのではなく、映画を見て、原作を読むことで、原作のおもしろみもよくわかる。原作を先に読んでいたら、あまりよくわからず、だから映画も見ようという気にならなかったかもしれない──これでは原作をほめていることにならないのだろうか。もしかすると、原作を読んで不完全燃焼だったりすると、それでも映画を見たときに、ああそうかとわかってカタルシスになったりするのかもしれない。
 

 ともあれ、原作も(読みようによっては、プロット以外は映画とは別の話といっていいくらいだが)よくできている。この仕掛はこういうふうに使えるのかという「発見」もある。翻訳で読んだが、このテーマの話を翻訳するというのも大変というか、うらやましいというか。
 

 邦題のつけ方が難しいことは承知の上で言うと、この映画も(前の「ある天文学者の恋文」と同様、あるいはそれ以上に)、原題が肝だと思う。このタイトルがこうなるかというところが、この作品の象徴だろう。もしかしたら、原作にあって映画にない要所をこのタイトルで表しているのかもと思うほど(単なる私の見落としだったらごめんなさい)。この点では原作のタイトルのままよりも良いタイトルだが、映画じゃないと成り立たないタイトルでもある。原作の小説は小説として良いタイトルになっていると思うし。

 そのうえで第四の疑問。原作を知り、もちろん映画も一度見て、そのうえでまたこの映画を見るとどうなるだろう。よくできた映画は何度見てもおもしろいし、細部の発見や確認だけでもおもしろいのだけれど、この映画はまた少し違うような感覚があるような(もしくは肝心なところがなくなるような)気がする。まだ上映が続いて、時間があったらもう一度見たい。あ、パンフレット買うのを忘れてた。