2013年8月27日火曜日

イプシロンの打ち上げ中止(2013/08/27)


 カウントダウンを最後までしてしまったのはさすがにかっこ悪いし、原因の究明もすんでいないところで外野から何かを言うのもどうかとは思うのだけれど、異常が検出されて自動停止したというのなら、システムが全体としてはうまく機能したということだと思う。

 たとえその「異常」という判断がまちがいで、調べてみると実は異常はなかったのだとしても(JAXAの記者会見では、そういうふうに言われていた)、異常(の可能性)を感じたらとりあえず止めるように作るというのは基本だと思う。異常(の可能性)があるのに、大丈夫だろうということにして進むのはまずいよというのは、私たちは(いやというほど)経験ずみのはずだ。緊急地震警報が誤報だったとか、イプシロンが実際には異常がないのに異常を示す信号があったために打ち上げを中止したとかのことを(実害もあるのだから、気にしないでいいとは言わないが)、「間違い」や「失敗」や「威信の失墜」や「経済的損失」や……とばかり考える方向に流れてしまうとしたら、そちらのほうがむしろ残念なことだ。

 何はともあれ、異常を示す信号に気づかず警報を出さないとか、異常に気づかず打ち上げて制御できなくなるとか、警報は出ていたけれど、打ち上げを見にきている子どもたちをがっかりさせたくなかったから無理して打ち上げたら……といった、システムの意図そのものを否定するような結果ではなくてよかったねと思う(異常が察知されていながら、カウントダウンの放送が進んでしまったというのは、あまりに直前すぎてとっさに事態がのみこめなかったということなのだろうとは思うが、事態がのみこめないのなら、それもまた異常の信号なのだから、「カウントダウンの放送をとっさに中止」できるシステムにしておくことも必要かもしれない──デモンストレーションもシステムのうちなのは確かだ)。

 もちろん、何であれそういう異常が起きてしまったことの原因を追究してクリアしなければ次へは進めないが、今回はシステムが未完成だったということがわかり、未完成のまま強行されずにすんだということで、システムはそうやって仕上がっていくものでしょう。外野から差し出口で恐縮ですが、かっこ悪い結果になったことは忘れずに、それでも萎縮したり逆に過信に走ったりせずに、なすべきことをなしてほしい(異常がないのに異常を示す信号が出ることがあるのだからということで、次は警報スイッチを切るというような「修正」はありませんように)。

2013年8月9日金曜日

理数系にナイーブという「美徳」


 Yes, T-Shirt Messages Matter, by Katie McKissick という記事を見た。女の子用のTシャツに「私の得意科目」と書いた一覧表がプリントされていて、「ショッピング」、「音楽」、「ダンス」という項目にチェックが入り、最後の「数学」の項目にはチェックが入っていない。その下に、「誰も完全じゃないわ」という一言が入っている……それを手がかりに、記事の筆者は、たかがTシャツのプリントと軽く見てはいけないと、Tシャツのメッセージの発信力を評価して、逆にこんなプリントはどう? という建設的な話に進む。

 でも私自身は最初のTシャツの話を引きずっていて、連想したのは、科学ネタのニュースで耳にするキャスターの(男女を問わず)、「難しくてよくわかりませんが……」の類のコメント。それは卑下というよりもむしろ、「私は科学のことがわかるようないやな奴ではありませんよ」というメッセージになっているような感じがする……その点で、先のTシャツのプリントと同じような構造になっているように思う。数学や科学が苦手であることは、少なくともそれがあたりまえ、さらにはその延長上で、(変な人間ではないという意味での)美徳とされている。

 そう言えば、映画『コンタクト』で、エイリアンの信号と思われるものを科学者が発見したことを大統領が発表するとき、(私にはよくわからないが)立派な科学スタッフがいてくれて安心だ、だから話はそちらに内容は任せる……といったことを言うシーンがあった。もちろん、よくわからないことをよくわからないまま何か言うより、ちゃんとわかっていると思われる担当者に語らせるという判断は正しいと思うが、これが外交問題や経済問題だった場合、大統領がこの話は自分の手に負えないと言ったらどうかと考えると、やはり科学なるものの位置づけがうかがえる。大統領が科学のことをよく知っているように見えたりすると、選挙でマイナスになりかねないのだ、きっと。フィクションとはいえ、そういう表現にリアリティがあると考えられているのにはちがいない。

 理数系にナイーブであることが好ましさ(親しみやすさ?)の一項目になっている。現実はそうだ。でも、そんな世の中で科学を志したい、わかりたいと思う人が増えると思いますか……(あるいは別に増えなくてもいいということなのだろうか)。わかれとか、わかったふりをしろと言うのではない。でも、個人的な趣味の発言ならともかく、公器で世の中に向かって何か言うのなら、わからなくていいとか、さらには、わからないでいるほうが好ましいことになるみたいなメッセージは送らないほうが、やっぱりいいと思うのだけれど。

 建設的なほうに向かわず恐縮です。

2013年8月8日木曜日

尋常でない事態には尋常の情報は役に立たない?


 ベンチャー企業に出資しようという場合には、尋常な分析は意味がないのだとか。今までとは違うことをしようとする企業が成功するかどうかは、そもそも今までの評価のしかたでは評価できないからだという(Amos Zeeberg, "The Marvelous, Bad Ideas That Are Worth $ Billions" が引くポール・グレアム)。ふむ。

 これに対して、科学的懐疑主義のモットー、「尋常ではない説が成り立つと言えるには、尋常ではない質の証拠が必要」というのもある。それまでに圧倒的な証拠で支持されている確立した体系を否定するようなことを言おうとすれば、それを上回る証拠が必要ということだ。私は基本的にこの考え方を支持している。

 懐疑主義のモットーは、「尋常ではない説」がありえないと言っているわけではない。圧倒的な証拠がないと成り立つとは言えないと言っているだけだ。ものすごい低い確率でも、「あり」かもしれない。「当たった」ベンチャー企業は、とてつもない利益をあげて(つまり圧倒的な証拠で)成り立つことを見せているわけで、懐疑主義の壁を突破したということだ。

 だから尋常でなければ何でもいいわけではないところが現実の(懐疑主義的な)厳しさだ。グレアムは尋常ではないことを企てる企業の中から成功するものだけを見抜くわけではない。ほとんどは失敗するものの中にあるわずかな「当たり」で全体としてプラスにしようとするだけだ。宝くじほど運任せではなく、不利でもないのだろうにしても。

 懐疑主義とベンチャー投資、一見すると正反対だけれど、実は土台にある思想というか原理には、そう変わりはない。尋常ではないことはめったにないのだ(トートロジーのほうに書いたほうがよかったかな)。ただ、圧倒的な証拠を見るまで保留にするか、中には圧倒的な証拠を出すものがあるとふんで、むしろ証拠がないことが尋常でないことがあることの指標と見て先物買いをするかという違いにすぎない……と言うほど小さい違いではないけれど、同じ認識からまったく違う判断(実践)が出てくるという話。