2013年8月8日木曜日

尋常でない事態には尋常の情報は役に立たない?


 ベンチャー企業に出資しようという場合には、尋常な分析は意味がないのだとか。今までとは違うことをしようとする企業が成功するかどうかは、そもそも今までの評価のしかたでは評価できないからだという(Amos Zeeberg, "The Marvelous, Bad Ideas That Are Worth $ Billions" が引くポール・グレアム)。ふむ。

 これに対して、科学的懐疑主義のモットー、「尋常ではない説が成り立つと言えるには、尋常ではない質の証拠が必要」というのもある。それまでに圧倒的な証拠で支持されている確立した体系を否定するようなことを言おうとすれば、それを上回る証拠が必要ということだ。私は基本的にこの考え方を支持している。

 懐疑主義のモットーは、「尋常ではない説」がありえないと言っているわけではない。圧倒的な証拠がないと成り立つとは言えないと言っているだけだ。ものすごい低い確率でも、「あり」かもしれない。「当たった」ベンチャー企業は、とてつもない利益をあげて(つまり圧倒的な証拠で)成り立つことを見せているわけで、懐疑主義の壁を突破したということだ。

 だから尋常でなければ何でもいいわけではないところが現実の(懐疑主義的な)厳しさだ。グレアムは尋常ではないことを企てる企業の中から成功するものだけを見抜くわけではない。ほとんどは失敗するものの中にあるわずかな「当たり」で全体としてプラスにしようとするだけだ。宝くじほど運任せではなく、不利でもないのだろうにしても。

 懐疑主義とベンチャー投資、一見すると正反対だけれど、実は土台にある思想というか原理には、そう変わりはない。尋常ではないことはめったにないのだ(トートロジーのほうに書いたほうがよかったかな)。ただ、圧倒的な証拠を見るまで保留にするか、中には圧倒的な証拠を出すものがあるとふんで、むしろ証拠がないことが尋常でないことがあることの指標と見て先物買いをするかという違いにすぎない……と言うほど小さい違いではないけれど、同じ認識からまったく違う判断(実践)が出てくるという話。

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