2013年8月9日金曜日

理数系にナイーブという「美徳」


 Yes, T-Shirt Messages Matter, by Katie McKissick という記事を見た。女の子用のTシャツに「私の得意科目」と書いた一覧表がプリントされていて、「ショッピング」、「音楽」、「ダンス」という項目にチェックが入り、最後の「数学」の項目にはチェックが入っていない。その下に、「誰も完全じゃないわ」という一言が入っている……それを手がかりに、記事の筆者は、たかがTシャツのプリントと軽く見てはいけないと、Tシャツのメッセージの発信力を評価して、逆にこんなプリントはどう? という建設的な話に進む。

 でも私自身は最初のTシャツの話を引きずっていて、連想したのは、科学ネタのニュースで耳にするキャスターの(男女を問わず)、「難しくてよくわかりませんが……」の類のコメント。それは卑下というよりもむしろ、「私は科学のことがわかるようないやな奴ではありませんよ」というメッセージになっているような感じがする……その点で、先のTシャツのプリントと同じような構造になっているように思う。数学や科学が苦手であることは、少なくともそれがあたりまえ、さらにはその延長上で、(変な人間ではないという意味での)美徳とされている。

 そう言えば、映画『コンタクト』で、エイリアンの信号と思われるものを科学者が発見したことを大統領が発表するとき、(私にはよくわからないが)立派な科学スタッフがいてくれて安心だ、だから話はそちらに内容は任せる……といったことを言うシーンがあった。もちろん、よくわからないことをよくわからないまま何か言うより、ちゃんとわかっていると思われる担当者に語らせるという判断は正しいと思うが、これが外交問題や経済問題だった場合、大統領がこの話は自分の手に負えないと言ったらどうかと考えると、やはり科学なるものの位置づけがうかがえる。大統領が科学のことをよく知っているように見えたりすると、選挙でマイナスになりかねないのだ、きっと。フィクションとはいえ、そういう表現にリアリティがあると考えられているのにはちがいない。

 理数系にナイーブであることが好ましさ(親しみやすさ?)の一項目になっている。現実はそうだ。でも、そんな世の中で科学を志したい、わかりたいと思う人が増えると思いますか……(あるいは別に増えなくてもいいということなのだろうか)。わかれとか、わかったふりをしろと言うのではない。でも、個人的な趣味の発言ならともかく、公器で世の中に向かって何か言うのなら、わからなくていいとか、さらには、わからないでいるほうが好ましいことになるみたいなメッセージは送らないほうが、やっぱりいいと思うのだけれど。

 建設的なほうに向かわず恐縮です。

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