2018年7月1日日曜日

「〜分前」と「強弱」


 昔、フランス語を教えていた20世紀末、時刻の表現が通じない、というより理解されないことに気づいた。教科書には、たとえば6時50分のことは、「sept heures moins dix」(7時マイナス10分、つまり「7時10分前」)と表すと書いてある。なぜわざわざそんな言い方をするのか、「six heures cinquante」と言えばいいのにというのが学生の言い分。

 実は私は当初、なぜそれが疑問なのかがわからなかった。もちろん自分では日本語でもそういう表し方はあたりまえにするからだ。でも、それは通じにくくなっているらしい……なぜかと考えて思い当たったのが、もうあたりまえになりつつあった(なっていた?)、デジタルの時刻表示。

 アナログの針表示なら、「6時50分」の針の形を見て、短針が指す最寄りの位置を見て、まず「7」と読む。そこより手前なので、「○○分前」と読む。これは時計の見方として自然だ。わざわざ遠い方の6を探して読む方が不自然だ。アナログ式の時計ができてからこのかた、それがすべてではなくても、十分に通用したし、まぎれもなかった。そういう事情を説明しつつ、今はデジタルの時代だから、デジタル表記をそのまま読んで、6時50分はフランス語でも「six heures cinquante」と表すようになるでしょう(もうなっているかも)と説明することにした。

 なんて昔話を思い出したのは、「「7時10分前」は何時のこと? 「6時50分」VS「7時9分」で大激論」という記事を見たから(https://www.j-cast.com/2018/06/27332399.html?p=all)。こうなると、もうデジタル表記しか認めないという人々が多くなったということなのだろう。「7」と言われたとたん、もう「7時○○分」以外は考えることはない、わざわざ「6」に戻す選択肢はありえないと考える人々が増えているということだと思う。

 しかるべき典拠はもう不明だが、「強弱」についても似たような話を聞いたことがある。たとえば「100強」と「100弱」は、古典的にはそれぞれ「100プラスアルファ」と「100マイナスアルファ」のことだが、今は「100を大きく超えている」と「100を少し超えている」と解する人が増えているのだとか。これもすでに「100」と言われているものを戻して「90いくら」にするのは不合理で、「100いくら」の「いくら」の部分の多少の差と解するのが、素直で合理的な読み方だということなのだろう。

 言いたいのはどちらが正しいかということではない。デジタル表記しか考えられない人が増えれば、そういう理解が出てくるのは当然のことで、アナログの針表記をふまえた表現を知っていて、それに慣れている人が少数派になり、ゆくゆくは死滅してしまえば、その後の時代には、「7時10分前」と言われて「6時50分」と思う人はいなくなる。そうなれば、それが「正しい」日本語として確定するということなのだろう。

 でも、今はその両方があり、両方が生まれるいきさつは、「かつて」はアナログの針表示が時計としてあたりまえだった時代の理解があり、そこで生まれた表現を、後の人が別の意味に使うようになったということ。前からの人も今の理解の理屈をふまえて、そういう言い方があるのだろうというのを理解し、後の人も、その表現の歴史をふまえて、そういう言い方があるのだということを理解するのが、言葉の歴史(進化)を理解するということだと思う。どちらが正しいか、はっきりさせようという話になるのは好まない。

いくら江戸っ子でも、どれほどたんかを切っても、この渾然として駘蕩たる天地の大気象には叶わない。満腹の饒舌を弄して、あくまでこの調子を破ろうとする親方は、早く一微塵となって、怡々たる春光の裏に浮遊している。矛盾とは、力において、量において、もしくは意気体躯において氷炭相容るる能わずして、しかも同程度に位する物もしくは人の間に在って始めて、見出し得べき現象である。両者の間隔がはなはだしく懸絶するときは、この矛盾はようやく澌礱磨して、かえって大勢力の一部となって活動するに至るかも知れぬ。大人の手足となって才子が活動し、才子の股肱となって昧者が活動し、昧者の心腹となって牛馬が活動し得るのはこれがためである。今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じている。長閑な春の感じを壊すべきはずの彼は、かえって長閑な春の感じを刻意に添えつつある。余は思わず弥生半ばに呑気な弥次と近づきになったような気持ちになった。この極めて安価なる気燄家は、太平の象を具したる春の日にもっとも調和せる一彩色である。
──『草枕』第5節

 私も無意識に新しい言い方を取り入れて使うこともあるとはいえ、意識の上では、今となっては古い言葉を、この親方のように、場にそぐわないと言えるほどの力もないまま、私は使う──それで誤解されることもあるだろうが、そのときはそれは誤解だよと言うしかないだろう。それは好みの問題、選択の問題で、それが「正しい日本語」だからではない。ただ、新しい言葉づかいがあることを日々学習しつつ、そこに簡単に乗るつもりもない。単に「それが好きではないから」にすぎなくても。

 その新しい言い方は、ただ生まれたのではなく、ましてや昔から正しかったからそうなっているのではなく、古い言い方を誤解したとか、誤用したとか、あるいは不満足なところを「改良」するとか、様々ないきさつで、何らかの意味で古い言い方から生まれた、変化を伴う継承だ。そこには当然、そうなる前の古い言い方がある。定着するにしても、古い言い方と占有率を競って、そちらの方が残るというプロセスを通じて定着するものだ。それが──一方に抵抗勢力あっての──「進化」という現実だと思う。

 今の人は言葉を知らないと言って否定するのも了見が狭いが、逆に、言葉は変化(進化)するものだから、つねに新しい方が正しく、古い言い方を持ち出すのはやめてくれと否定するのも了見が狭い。今はどちらの表現もあるのだということを知り、状況に応じてそれが理解でき、できることなら使い分けるようにすることが、言葉を豊かにするということではないかと私は思う。わかりにくければ、わかろうとすることが大事だけれど(もちろん古い側も新しい側を)、わかりやすさだけを目指してわかりにくい言葉づかいを避けるのもどうかと思う。残らないものはどうせ残らない。でも、だから使わないようにするというのも違うと思う──そんなことを言っても、ただわかりにくい、場違いな文章を書いていることにしかならない、要らない文章になってしまいかねないけれど。とかくに人の世は住みにくい。

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