2014年3月13日木曜日

あったらいいな、そうだったらいいな……

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。……

 これを見て、ああ『草枕』だと思ってくれる人がふつうにいれば、引用を明示することもないのだけれど、そうでなければ、断りもなくこんなことを記すと「ぱくり」になる。提出する文書の大部分がコピペでクレジット表示もないとなればやはりまずいとはいえ、言葉も音楽も美術も科学も、先人が築いたものの上に乗ったものであるのにはちがいない。口をついて出るフレーズ、頭にわき上がるように浮かぶメロディーが、実は誰かの創作だったということはある。自分で気づかずにそうした後でそれに気づいたときは、残念でまた恥ずかしい、「やっちまった」感が伴う……

 草枕の引用を途中で切るのが惜しくて長くなった流れで話は始まってしまったが(ついでに「三十の今日」は、私自身に重ねるなら「六十に近い今日」にしなければならないが)、そういうことが言いたいわけではなかった。

 作曲家のゴーストライター騒ぎもSTAP細胞騒ぎも、持ち上げるのも落とすのも、同じメディアだということ(その逆の、「怖そうに見えて実はいい人」扱いも構造は同じ)。後でたたくことをねらって持ち上げておくのかとさえ思ってしまう。追及の舞台を整えて悪役をひれふさせるという話が好きなのは、水戸黄門から半沢直樹へと脈々と引き継がれる人々の本性なのだろうから、メディアのこちらにいる人々もそれで納得しているということか?

 別にあの作曲家、この研究者などを擁護しようというのではない。しでかしたことはしでかしたこととしてその始末もつけなければならないだろう。ただ、

「アイデア」(広い意味で言っている)の評価と人の評価が重なってしまうこと(優れた成果をあげた人は人間としても立派だ、そうでなければならない)

と、

「アイデア」の価値を、受け止める側の都合や思惑や筋書きで決めること(あったらいいなの願望に沿うものが、日本人の、しかも女性によって発見された!)

にはうんざりしている。人は本当にそういう「ニュース」を求めているのだろうか。そうだとしても、求められているから「作る」(構成する)んだというのも、おとぎ話としてのドラマならともかく、報道とは別の世界の話だ。

 願望や好みに合うものが出て来た段階で、それに魅力を与えているのは、向こうの価値ではなく、こちらの願望や好みだということを考えるのがよろしいかと。願望や好みに合う話は、「事実であってほしいこと」であって、事実ではない(まだ事実になっていない)。たとえ本人に悪意がなくてもこういうことはありうる。そういう区別や認識が、メディアやそれを通じて見える世間では、どんどんなされなくなっているような感じがしている。

 何で持ち上げたり乗ったりする前に、本当か?と思わないのだろうか……でも、冷静に眉に唾をつけて、乗らなかったら、それはそれでとやかく言われるんだろうね。それもまたどこかで聞いた話、いつか来た道だ。

 何より、私自身、飛びついてしまうことはある……だから、そこで一息つかないと。こういう話は、拙訳の中でも気に入っている、シュルツの『まちがっている』(青土社)の系譜に属する事例だと思う(本人たちのことより、受け取る側として)。

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