2014年3月15日土曜日

「徹底的に教育し直さなければ」

と、上層部の人が言っていることが各メディアで報じられている。組織や訓練システム内の問題としては確かにそういうところはあるのだろう。このくらいは当たりまえだろうとは、なかなか期待できないということでもある。

だから、教育し直すというのは、受け止め、評価する側が自らについて考えるべき課題でもあるということ。理研にもNature信仰があるのだろうか、発表された段階で、赫々たる成果を誇る姿勢だったことは確かだし、報道も「日本がまた!」のお祭りムードだった。「尋常でない説には尋常以上の証拠がいる」というのは、科学の基本姿勢と言っていい(私が好きな面と言うべきかもしれない)。今回の騒ぎには、その姿勢が、科学の話を受け止める側にも、「発見」を評価する側にもいささか欠けていたように思う。疑問を口にするのもはばかられるような……

 悪意の有無が追及されているが、悪意がなければいいという話でもない。たとえ悪意がなくても、これは起こりうることなのだ。場合によっては指弾が必要なこともあるとはいえ、それ以前に、健全な懐疑や適切なスルーも、研究者本人から、報道、さらにはその報道を受け止めるに至るいろんな局面で必要だと思う。

やっていいことといけないことのマニュアルを作るなどと考えるとぞっとするが、それでも、コピペや画像の使い回し、修整がいけないということを知らないのなら、もちろん教えなければいけないだろう。でも、いちばん教えてほしいのは、健全な懐疑だ(自分に対するものも含め)。イノベーションは常識に反しているものだけれど、常識に反すればイノベーションになるわけではない。健全な懐疑をくぐり抜けてこそ、すごいことになる。しかしこの懐疑は、保守的で頑迷な、独創性やイノベーションを理解しない偏狭な姿勢として、あるいはみんなが沸いているのにそれに水を差す姿勢として、ばかにされ、嫌われることが多い(健全でない懐疑もままあるからややこしいのだけれど)。だから余計に、それぞれの方面でそのことを「教育し直す」必要があると思う。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる」

漱石が論じる芸術(ここでは「詩」)と科学は違うけれど、通じているところを感じてしまう『草枕』でした。

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