2014年7月30日水曜日

理解可能、学習可能

 この夏に出る、学習と進化をアルゴリズムとしてとらえ、そのアルゴリズムがどういうものかを論じた拙訳を元に思ったこと。

 アインシュタインは「この宇宙についての永遠の謎は、宇宙が理解可能であるということだ」と言ったというが、理解できるように理解していると考えれば謎ではなくなる。われわれが理解しているのは、そのときに理解できることであって、その先のことは先にならないとわからないし、先になれば理解は修正、拡張される。ウィグナーの「物理学においておかしなほど数学が有効であることについて」という謎も、数学で表せる部分をとらえているからと考えればさほど「おかしな」こととは思えなくなる。

 ラムゼーの定理は、どんなデータにも何らかの「秩序」はつけられるのだから、ありえなさそうなことが成り立つという証明があったとしても(たとえば数秘術的な「こじつけ」のようなことが念頭にある)、驚くようなことではないというふうに使われるが、まさしく何らかの秩序がつく部分を把握することが「理解」であり、それを獲得することが広い意味での学習ということになる。学習は必ずしも意識的なものである必要がないとすれば、つまり「適応」も一種の学習と考えれば、生物の進化も、生物が延々と、必ずしも「完璧な正解」があるわけではない学習を続けているということになる。

 データが増えれば、(ほっといても)つけられる秩序も大きくなる。してみると、すべてがわかることは永遠にないかもしれないが、だんだんわかることは増え、広がるということになるかしらん。


  もう一つのほうのサイトの五月雨的アクセスはようやく止まったもよう。けっこう長く続いたことからすると、「コピペレポートのネタ」説は成り立ちそうにないが、何かの締切にはなったのだろう。そのもう一つのほうに書くべきことかもしれないのだが……書いているうちに、おこがましくも、『草枕』に出て来る、頭の中で巡る考えみたいに思えてきたので、こっちに。

0 件のコメント:

コメントを投稿