2015年10月15日木曜日

独創性賛……

 今年は夏の終わりを意識する暇もなく秋に突入し、相も変わらぬノーベル賞騒ぎが少し静まったところ。相も変わらぬ中に「独創性」という主題があって、受賞者の個性的なところを取り出し、型にはまらぬ個性を大事にしましょうということになる。もちろん独創性や個性は大事でしょう。せっかくある独創性や個性なら、それをつぶさないようにしてほしい。でも、その独創性とか個性とかは、標準や常識や型や一般に反することをもって、教育から標準や常識や型や一般をなくせばいいというふうに傾くのは剣呑。受賞者は人まねをしていてはだめというけれど、何が人まねで、何が人まねでないかを知るには、人がしていることを承知していないといけない。

一層(いっそ)の事、実物をやめて影だけ描くのも一興だろう。水をかいて、水の中の影をかいて、そうして、これが画だと人に見せたら驚ろくだろう。しかしただ驚ろかせるだけではつまらない。なるほど画になっていると驚かせなければつまらない。どう工夫をしたものだろうと、一心に池の面を見詰める。
──『草枕』第十節

一興は楽しいけれど、一興はその場かぎりのもの、そこに何らかの恒常的な意味(「画になっている」=広くても狭くても、何らかの様式としての価値)が成り立つには、お手本をふまえた工夫が要る(「一心に池の面を見詰める」)。お手本を見る力こそ養ってほしい。

 大昔、どうすれば国語ができるようになりますかと聞かれ、何かのコラムなど、短い文章でいいから、いろんな文章を一編まるごと写すというのを続けなさいと答えたことがある。写すんですか? 要約じゃだめなんですか? と言うので、短い文章を要約したってしょうがないでしょう、一息の文章をまるごと写すから、文章がつかめるし、書けるようにもなるんだと答えると、写すなんて人まねはいやだと応じられた。逆に、テキストを丁寧にノートに写している生徒もいて、それでちゃんとできるかと言えばそうとは限らないのも確か。写すことの意味を納得してないと、それこそ型に合わせてはまるだけで(あるいはただの苦痛だけで)、型を理解することにはならない。

 だからこそ学校は、きちんと広く型を教え、本人がそれに照らして自分の個性や独創性の部分を発見する「鏡」になって(鏡を提供して)ほしい。型にはめるためではなく、型の向こうにあるものが見えるようにするために。個性が大事だからと、たとえば早くから得意科目ばかりを選択させたのでは、たいてい、苦手なことを選ばないというだけのことになって、単なる偏食に終わるものだろう。陳腐なたとえながら、基礎となる栄養はまんべんなくとらないと、足りている栄養も、足りない栄養にひっぱられて使えないことになる。それで嫌いなものも食べられるようになるわけではないとしても、やっぱりそれは言い続けないと、と思う。

余のごときは、探偵に屁の数を勘定される間は、とうてい画家にはなれない。画架に向う事は出来る。小手板(こていた)を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色のなかに五尺の痩躯を埋めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界に入れば美の天下はわが有に帰する。……余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画もかかない。絵の具箱は酔興に、担いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤(わら)うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
──『草枕』第十二節

名画をかいた人は独創的で、世間や常識や型にとらわれないのかもしれない。今は。でも、だからずっとそういう生き方をしてきた、あるいはそれができたと思い、みんなが若いときからそうすればいい、みんなそうさせればいいというわけにはいかないだろう。結果はいろいろなことの結果であって(場合によっては「探偵に屁の数を勘定される」[いわば型からはずれたところをチェックされる]こともあれば、そこから逃れる手間をかけなければならないこともあるだろう。何やかや、一本道ではなかったはずだ。すでに何かを得たのではなく、これから何かを得る人には、何がどうなるかわからないから、先へ進む手がかりとして、型として取り出せるお手本をよく見る必要がある(結果論的な成功例を表面的に「独創性」のお手本にするのではなく)。

 結局、個性とか独創性は本人のもので、学校で、あるいは人から教わるものではない。学校が本物の個性や独創性に気づかずそれをつぶすというのはあってほしくないけれど、個性や独創性が大事だからと好き勝手を放置しても、ほとんどはでたらめが増えるだけだろう(ごく一部の「当たり」が出てきたら、自由な教育のおかげとかなんとかになるのかもしれないが)。何も考えずにひたすらでたらめをしても、長いことやっていれば、自ずと「空虚な中心」という形でその人らしさが見えてきたりすることもあるから、それを待つ余裕があるなら、それこそそれもまた一興かもしれないが──これまた必ず得られるともかぎらないし、得られた空虚な中心がおもしろいものである保証もない……

 でも、いちばんやっかいなのは、たとえばこのようなどうなるかわからないものを「独創性」といった言葉で表さざるをえないことかもしれない。独創性と言えばそれだ何かを捉えたように思うけど、考えてみるとこれは、要するに「成功した結果をもたらしたよくわからない原因」の名ではないか。求めるものの正体がわからないというのは、やはり「空虚な中心」なのかもしれない。


 いいお手本に会えればいいけれど。それにやはり、会えれば必ずうまくいくというわけでもないけれど。とかくこの世はすみにくい(し、わかりにくい)。

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