2015年10月28日水曜日

3×5 = 5×3

だからどちらでもいいじゃんという、バツをつけられた子やその親や「世論」と学校の(数学の)先生との対立というのは、英語圏ではどうなるだろう、もしあるとしたら、式は逆になっているはずだと思っていたけど、その例が目に入ってきた(Teacher's answer to Common Core math problem has parents steaming=http://www.sheknows.com/parenting/articles/1100469/common-core-math-problem)。以前に別のブログの「a×b=b×a」という項でも書いたことだけど、せっかく記事を見たので、こちらの話としてあらためて。

 この記事では、むしろ最近「これは違う」と教えるようになっているということだから、かつてはどちらでもよいということだったらしい。ほら見ろ、とどちら側からでも言えるけど。

 この記事で言われているのは、ある小学生の算数のテストの答案で、5×3を足し算の形にして計算しなさいという問題に、この子は「5+5+5=15」としているのに対して、先生は、これは「3+3+3+3+3」だとして減点している。その答案用紙の写真に「ひどい教師だ」というコメントがついたツイッターの投稿を元に、今の算数教育のこのことについての考え方を紹介している(「壊れていないものを直すな」という諺でしめくくられているところを見ると、やっぱり批判的なんだろう)。

 あらためて言うと、英語では、5×3は「five times three」と言うが、これは3の5倍であって、5の3倍ではない(りんごを一人が3個ずつ持っていて、5人いると全部で何個? の「正解」ということ)。日本語では、3×5(3の5倍)と言うところを、英語ではこう表現するということであって、どちらでもいいからそう書くという話ではない……でもやっぱりそういう考え方は、世論としては分が悪いということなのだろう(算数どころか、英語の時間にも「どちらでもいいじゃん」の声が聞こえてきそう)。

 それでも私は3×5と5×3は「意味が違う」と考える。数の計算として交換則が成り立つから、それを利用してプログラムを簡単にするといったことは考えてもいいが、それは乗算の仕組みを理解した上での乗算という演算の性質を調べるときに見えてくることで、最初から前提にしておいて、だから計算するときはどちらでもいいんだというのは、要するに答えさえ合えばいいということでしかない。計算はできるけど、数学はわかっていない。

 上の記事では、だからといって、わざわざ話をややこしくして数学嫌いを増やすことはないということなのだろうし、原理原則を通せば嫌われるのはまさしく「知に働けば角が立つ」だ。でも、「情に棹させば流され」もする。

 結局のところ、それこそ「トートロジー」向きの話だけれど、数学は数学がわかる人にわかるものである……ひとまず3×5と5×3は違うということを理解するのがある意味、数学を理解するということで、結果が同じならどちらでもいい、細かいことで目くじらを立てることはないというのは数学を理解していないということなのだ。世論はもちろん、そんなわかりにくい理屈を理解しなくても、答えが合っているならいいとせよ、の側にある。しかしそれは世間がいかに数学を理解しないかということだ。

 理数系離れはまずいというけれど、理数系から離れていない世の中とは、たとえていえば、3×5と5×3は違うという理屈をあたりまえにとる(そのうえで乗算には交換則がなりたつことを理解する)人が多い世の中だと思う*。理数系的な考え方をめんどう、わかりにくい、だからどうでもいいことにしようと言いつつ、理数系離れを心配するとすれば(世論は本当にそれを心配しているのか知らんとも思うけれど))、それは矛盾した話だというわけで、意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。


* 私はそう思うけれど、世間的にはむしろ、理屈はわからなくても、計算して「正解」を出せる奴を増やせということなのだろう。でもそれって、危なくないか? エレンバーグ『データを正しく見るための数学的思考』(日経BP社)という拙訳もあるので、よろしく。

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