2013年10月27日日曜日

「注目を集める」?

 ここのところアナウンサー(私がよく聞くのはNHK)がやたらと「注目を集める」と言っているのが気になる。いつも校正の方々から多々つっこみの入る身としては、他人様の言葉づかいをとやかく言うのは気が引けるけれど、とくに誰かがつい、というより、ニュース原稿や特集番組のナレーションでこの言いまわしを使うことが方針になっているみたいに、やたらと耳にする。

 いくつか辞書を見ても、「注目を浴びる」、「注目される」という用例はあるけれど、「注目を集める」の用例はまだ見ていない。「耳目を集める」、「関心を集める」はなじんでいるが、「注目を集める」は、「注ぐ」の部分が「集まる」に重なって、耳障りなのだろうと、自分では思う(映画の「舟を編む」で見た言葉を集める人々からすれば、これこそ用例のうちということになるのだろうけれど)。

 もっと言えば、この言い回しがやたらと使われることが気になるんだろうと思う。もともと「注目を集めて」いることを取り上げるのがニュースや特集番組だとすれば、それをわざわざ「注目を集めています」と言うのはくどいとか、逆に、自分が目をつけたことを「注目を集めています」と言って客観的なふうを装うという様子が鼻につくとか、そんな感じが伴うから、よけい、言葉としておかしいと感じてしまうような気がする。

 あらためてい言うと、振り返ってみれば、自分でもその種のことはやっているんだけれど、尽きせぬ自戒の種として、気になる(障る)ということで、悪しからず。

2013年9月25日水曜日

アイデアの敷居


 アシモフがファウンデーションの世界を知的生命は人類だけという設定にしたのは、異星人を入れると、人類が異星人をやっつけて支配するという話が求められるので、最初から人類しかいないことにしたという話を聞いて(直接見たのはStephen Webb, "Asimov’s humans-only galaxy"によるが、Wikipedeaにもそういう記述があるので、わりあい知られていることなのだろう)、なるほどと思った。小説なら、そういうふうに宇宙を組み立てることもありそう。そういう意味で自由は効く。でも、小説の構想を受け入れてもらうための敷居というのも、当然のことながらあるということ。この小説は、翻訳の仕事をしているときにもときどき遭遇するので気にはなっているのだけれど、人類だけの銀河なんて狭すぎないか? ということで、ちょっと敬遠していたのだが、そういう事情もあるんだなと思ったしだい(もっとも敬遠のいちばんの理由は、あまりに長大すぎてとてもフォローしきれないということだけれど)。

 背景事情はともかく、今は地球外生命探しがあたりまえみたいに行なわれているので、逆に地球人だけの宇宙は考えにくいというところもあるが、当然いるという思い込みもまた危なっかしいのかもしれない。あるところで「水を差す」ような存在がいてくれないと困るということだろう。何ごとも中庸は難しいけれど……そんなことを思いながら、リーディングリストをたどっていると、Matthew Francis, "Scientific grumpfiness and open-mindedness"という記事も目に入ってきて、やっぱりそういうことかと思う。科学の世界に定説を覆すような新しいものが現れるとしても、それは簡単に成り立つものではなくて、目新しさよりも、実際の証拠に照らしてどうかを確かめる、こうるさいチェックが肝心で、そのこうるささを偏狭と言われればそうだとしても、可能性ばかりを見て証拠に目を開こうとしなければ、それもまた偏狭で、現実の証拠に対してはopen-mindedでないと……というような話(粗い要約。悪しからず)。科学は可能性を広げるものでもあるけれど、制約するものでもある(そうでなければならない)と思う。

 学生に、「科学は正しい知識の集まりというのではなくて、まずカンのようなアイデアがあって、それを確かめるところで科学が成り立つような場合もある」というような話をすると、とたんに「科学は難しいと思っていたけど、思いつきでいいなら、案外敷居は低いかも」といった反応もけっこう出てくる。そうやって敷居を低く見てもらうことも大事かもしれないけれど、でもやっぱり「確かめる」のほうが肝心で、それは相当厳しい関門だよということは言わないといけないだろうと思う(関門は厳しいほうが、信頼性も上がるという面も含めて)。方便として「親しみやすさ」を強調することもあるが、その部分があたりまえになってしまうのは、何ごとにつけまずかろう。

 Webbの記事からFrancisの記事への行き当たり方が「おっ」と思ったのだけれど、書いてみると無理にこじつけたなという感じ。「おっ」と思うことはよくあるが、現実のチェックは厳しい。夢を語らないとつまらないが、夢のまんまでは筋の通らないあだしごと、ということで退散。

2013年8月27日火曜日

イプシロンの打ち上げ中止(2013/08/27)


 カウントダウンを最後までしてしまったのはさすがにかっこ悪いし、原因の究明もすんでいないところで外野から何かを言うのもどうかとは思うのだけれど、異常が検出されて自動停止したというのなら、システムが全体としてはうまく機能したということだと思う。

 たとえその「異常」という判断がまちがいで、調べてみると実は異常はなかったのだとしても(JAXAの記者会見では、そういうふうに言われていた)、異常(の可能性)を感じたらとりあえず止めるように作るというのは基本だと思う。異常(の可能性)があるのに、大丈夫だろうということにして進むのはまずいよというのは、私たちは(いやというほど)経験ずみのはずだ。緊急地震警報が誤報だったとか、イプシロンが実際には異常がないのに異常を示す信号があったために打ち上げを中止したとかのことを(実害もあるのだから、気にしないでいいとは言わないが)、「間違い」や「失敗」や「威信の失墜」や「経済的損失」や……とばかり考える方向に流れてしまうとしたら、そちらのほうがむしろ残念なことだ。

 何はともあれ、異常を示す信号に気づかず警報を出さないとか、異常に気づかず打ち上げて制御できなくなるとか、警報は出ていたけれど、打ち上げを見にきている子どもたちをがっかりさせたくなかったから無理して打ち上げたら……といった、システムの意図そのものを否定するような結果ではなくてよかったねと思う(異常が察知されていながら、カウントダウンの放送が進んでしまったというのは、あまりに直前すぎてとっさに事態がのみこめなかったということなのだろうとは思うが、事態がのみこめないのなら、それもまた異常の信号なのだから、「カウントダウンの放送をとっさに中止」できるシステムにしておくことも必要かもしれない──デモンストレーションもシステムのうちなのは確かだ)。

 もちろん、何であれそういう異常が起きてしまったことの原因を追究してクリアしなければ次へは進めないが、今回はシステムが未完成だったということがわかり、未完成のまま強行されずにすんだということで、システムはそうやって仕上がっていくものでしょう。外野から差し出口で恐縮ですが、かっこ悪い結果になったことは忘れずに、それでも萎縮したり逆に過信に走ったりせずに、なすべきことをなしてほしい(異常がないのに異常を示す信号が出ることがあるのだからということで、次は警報スイッチを切るというような「修正」はありませんように)。

2013年8月9日金曜日

理数系にナイーブという「美徳」


 Yes, T-Shirt Messages Matter, by Katie McKissick という記事を見た。女の子用のTシャツに「私の得意科目」と書いた一覧表がプリントされていて、「ショッピング」、「音楽」、「ダンス」という項目にチェックが入り、最後の「数学」の項目にはチェックが入っていない。その下に、「誰も完全じゃないわ」という一言が入っている……それを手がかりに、記事の筆者は、たかがTシャツのプリントと軽く見てはいけないと、Tシャツのメッセージの発信力を評価して、逆にこんなプリントはどう? という建設的な話に進む。

 でも私自身は最初のTシャツの話を引きずっていて、連想したのは、科学ネタのニュースで耳にするキャスターの(男女を問わず)、「難しくてよくわかりませんが……」の類のコメント。それは卑下というよりもむしろ、「私は科学のことがわかるようないやな奴ではありませんよ」というメッセージになっているような感じがする……その点で、先のTシャツのプリントと同じような構造になっているように思う。数学や科学が苦手であることは、少なくともそれがあたりまえ、さらにはその延長上で、(変な人間ではないという意味での)美徳とされている。

 そう言えば、映画『コンタクト』で、エイリアンの信号と思われるものを科学者が発見したことを大統領が発表するとき、(私にはよくわからないが)立派な科学スタッフがいてくれて安心だ、だから話はそちらに内容は任せる……といったことを言うシーンがあった。もちろん、よくわからないことをよくわからないまま何か言うより、ちゃんとわかっていると思われる担当者に語らせるという判断は正しいと思うが、これが外交問題や経済問題だった場合、大統領がこの話は自分の手に負えないと言ったらどうかと考えると、やはり科学なるものの位置づけがうかがえる。大統領が科学のことをよく知っているように見えたりすると、選挙でマイナスになりかねないのだ、きっと。フィクションとはいえ、そういう表現にリアリティがあると考えられているのにはちがいない。

 理数系にナイーブであることが好ましさ(親しみやすさ?)の一項目になっている。現実はそうだ。でも、そんな世の中で科学を志したい、わかりたいと思う人が増えると思いますか……(あるいは別に増えなくてもいいということなのだろうか)。わかれとか、わかったふりをしろと言うのではない。でも、個人的な趣味の発言ならともかく、公器で世の中に向かって何か言うのなら、わからなくていいとか、さらには、わからないでいるほうが好ましいことになるみたいなメッセージは送らないほうが、やっぱりいいと思うのだけれど。

 建設的なほうに向かわず恐縮です。

2013年8月8日木曜日

尋常でない事態には尋常の情報は役に立たない?


 ベンチャー企業に出資しようという場合には、尋常な分析は意味がないのだとか。今までとは違うことをしようとする企業が成功するかどうかは、そもそも今までの評価のしかたでは評価できないからだという(Amos Zeeberg, "The Marvelous, Bad Ideas That Are Worth $ Billions" が引くポール・グレアム)。ふむ。

 これに対して、科学的懐疑主義のモットー、「尋常ではない説が成り立つと言えるには、尋常ではない質の証拠が必要」というのもある。それまでに圧倒的な証拠で支持されている確立した体系を否定するようなことを言おうとすれば、それを上回る証拠が必要ということだ。私は基本的にこの考え方を支持している。

 懐疑主義のモットーは、「尋常ではない説」がありえないと言っているわけではない。圧倒的な証拠がないと成り立つとは言えないと言っているだけだ。ものすごい低い確率でも、「あり」かもしれない。「当たった」ベンチャー企業は、とてつもない利益をあげて(つまり圧倒的な証拠で)成り立つことを見せているわけで、懐疑主義の壁を突破したということだ。

 だから尋常でなければ何でもいいわけではないところが現実の(懐疑主義的な)厳しさだ。グレアムは尋常ではないことを企てる企業の中から成功するものだけを見抜くわけではない。ほとんどは失敗するものの中にあるわずかな「当たり」で全体としてプラスにしようとするだけだ。宝くじほど運任せではなく、不利でもないのだろうにしても。

 懐疑主義とベンチャー投資、一見すると正反対だけれど、実は土台にある思想というか原理には、そう変わりはない。尋常ではないことはめったにないのだ(トートロジーのほうに書いたほうがよかったかな)。ただ、圧倒的な証拠を見るまで保留にするか、中には圧倒的な証拠を出すものがあるとふんで、むしろ証拠がないことが尋常でないことがあることの指標と見て先物買いをするかという違いにすぎない……と言うほど小さい違いではないけれど、同じ認識からまったく違う判断(実践)が出てくるという話。

2013年7月18日木曜日

「地に足がついた」宇宙開発


 この何日かで、宇宙エレヴェーターは20年以内に実現する!や、無人の自己複製機能を備えた探査機が近傍の生命探しに行く計画という記事を見た。早急に火星に人を送るよりずっと現実的な(まだ計画・構想段階で、クリアすべき課題は多々あるとはいえ、それでも「地に足がついた」と言ってもいい)話だと思う。
 宇宙に乗り出すとなれば、当然どこかで足を浮かせなければならないとしても、理念的には蓄積、底上げといったことが必要だろう。拡張する領域の事前探査、資源を送り出すためのいろいろな意味で費用効果の高い方式の開発・実施、さらには出先での資源調達法の開発は不可欠で、しかもその足場を組むような準備作業のために、何十年、何百年……という時間がかかるだろう。近くの恒星へ探査機を送る計画では、アルファケンタウリまで40年という、信じがたいほどの短い時間での飛行を構想しているというが、到達した中継地点で自己複製して拡散していく構想本体は、数百年から数千年で何千、何万という探査機ができて銀河に広がることを考えているらしい。それがデータを送り返してくるのを探知して……となると、さらに時間がかかる。
 そういう規模の中で、それでも足下から始めるしかない。自分は結果を見ることができないことのために構想・計画することが、この方面の話には不可欠になってくる(なかなか死ななくなる人間は、結局それなりの成果を見てしまうようになるのかもしれないし)。
 もう一つ、飛び出すことができるとなると、着地することを忘れて飛び出してしまうことになりがちなので、気をつけましょう(ときどき、高いところから飛び出して飛んだと思ったとたん、しまったと思う夢を見る;)。

2013年7月4日木曜日

知っていることは知っている


 別の場所のトートロジーの話に入ることだけれど、そちらではすでに別の材料で同じようなことを書いているので、この際こっちで……
 少し前になるがこんな記事を見た。「ちゃんと(システマティックに)考える」と「直観的に(ヒューリスティックに)考える」の二通りの処理のしかたがあって、「自分が知っていること」と「知っていないとわからないと思うこと」との差が大きいと、ちゃんと考えざるをえないけれど、差がない(または小さい──要は知るべきことは自分はちゃんとわかっていると思っている)と、直感的な処理に走るのだとか。「直感的には」その通りだと思う(つまり私はこの問題についてよく知っていると思っているというわけだ)。人は知っていることは知っているし知らないことは知らない(知らないという事実も含め)。だから人は必ず「自分はすべてわかっている」(と思ってしまう)というお話。
 昔、打ち上げ直後のスペースシャトル・チャレンジャー号が人々の目の前で爆発した後、世論は計画続行、中止の二つに割れ、その論拠もいろいろ出ていたが、どちらの立場からも「彼らの死を無駄にしないために」という論拠が挙げられていたという記憶がある。もちろんこの件にかぎらず、いろんな大事件でこの種の立場の分かれ方は出てくるものだが、私はこのとき、人々の判断は演繹的なのではなく、まず正しいと思う結論があって、論拠はそれに合わされる(だから同じ「事実」が正反対の主張の論拠とされる)という現実を刻み込まれたし、結局トートロジーなどというものにひっかかる遠因になっているように思う(もちろん直感的に)。どんな事実を前にしても、その事実は自分の立場を補強するものとして解釈することができるので、人はいったんとった立場を容易には変えられない……
 ここで挙げた記事も、説得するという脈絡でこの主題が取り上げられていて、反対の立場の人の思い込みは強固なので、こちらの立場を(情緒に訴えて)述べるよりも、情報や知識の正確さに目を向けさせるようにするほうが効果的だという話になっている。もっと言うと、とはいえ自分の立場だって正しい絶対の保証はないのだし、またいくらちゃんと考えたって正しい結果になる保証もないのだから、結局のところ説得とは結果よりも過程が大事だという話になっている。とにかく(直感的な)思い込みからいったん抜けるルートに乗せるということに意味があるというわけ。
 人間の都合(立場)に左右されないような回路を確保しようとしているという意味で、科学的な話だと思う(私は科学の価値をそこに見ていて、科学のいろいろな方法や約束事もそのためのものだと思っている)。