2015年8月2日日曜日

言葉が適応する(AIに)

 AIは人間の真似をするのだから、人間に近くなるし、人間の水準を反映してしまうものでもある。逆に、日本語が機械翻訳に合うような適応(進化?)をする可能性はある。

 そう思うのは、英語を間に合わせで機械的に日本語に置き換えるときに生まれたような言い方が、結局、ふつうの日本語として定着してしまう(あるいはもともとあったマイナーな言い方が、英語の置き換えとの親和性が高いために主流になる)ということがあるように見えるからだ(正確に由来をたどっているわけではないのだけれど)。つまり英語の機械的置き換えのための日本語みたいな部分が蓄積される。それがある程度進めば、つまり機械翻しやすい側の寄りの日本語があたりまえの日本語と認識される部分が大きくなれば、機械翻訳はそれを学習して、日本語でも使えると思われる結果を出力し、定着もするだろう(逆、つまり日英の変換がすんなり行くかどうかは私には読めない。機械的である以上は可逆的と思うが、日本語を間に合わせで機械的に英訳したものがふつうの英語になるほど、英語の中で日本語が占める部分は──まだ?──大きくないだろうとも思う)。

 翻訳にもチューリングテストみたいなのがあって、機械翻訳が機械翻訳ではないと思わせられればひとまず合格なわけで、そう判定される基準は(明瞭でなくても)、いろんな意味での機械翻訳の進行とともに変動するのだろう(人間の翻訳者が──私自身が──実は、効率のために、機械的になりたがっているところもある)。翻訳が人間によるものかどうかを判定する基準は人間がする翻訳なのだろうが、人間が人間的と思うところと機械翻訳の出力は、両側から、おのずと重なっていくのではないかと思う。

 機械翻訳と日本語の共進化。それがそれとわかるほどになるのがいつになるかはわからないけれど、何かの閾を超えるとあっというまに水準が上がり、広がるという感じはする。望むと望まざるにかかわらず。

2015年6月7日日曜日

猫の挨拶まわり

 猫が最期を迎えかけている。もう動く気もなくなったようだが、ちょっと前の昨日までは、こんな体でよくそんなに動き回れると思うほど、家の中をあちらへ行っては見回し、しばらく横になっては、また思い出したようにこちらへ行っては見回ししていた。ああここで遊んだとか、お世話になったところにご挨拶とか、擬人的に見ればそんなことをしていた。

 実際には、朦朧とした頭で、ふだんしていたことを残った力でできるかぎりしているということなのだろう。猫が懐かしむとは思わないが、そういうなぞりのような行動を人間が意識すると懐かしむということになるんじゃないか。

眼の届くところはさまで深そうにもない。底には細長い水草が、往生して沈んでいる。余は往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ。(『草枕』第十節)

猫を見守りながら、あいまの気休めに開いたところにそうあった。この猫にも「往生と云うよりほかに形容すべき言葉を知らぬ」。

 何も言わない猫だし、擬人的に思い入れるしかないけれど、これも涅槃経かなと思ったりする。諸行無常、それでも、残るおまえたちは怠らずに努力せよ……

 ポール・サイモンの American Tune の最後のほう、でもやっぱり明日も働いて、僕はちょっと休もう(というより安らぎを得よう?)としているみたいな歌詞も思い浮かぶ……なんてことを言ってると、じゃあ休んでいいよと言われてしまいそうだけれど。

 冬のあいだのお気に入りの私の布団までたどり着いて、6月7日朝5時半頃、永眠。享年十五歳。合掌。

2015年2月20日金曜日

2015年2月20日日没後の西の空

 月、金星、火星の接近。明日は曇りそうなので、次善の今日、眺めて撮ってみた(iPad)。


左上が金星で、右下が月(白い線は、上の階のベランダの縁)。拡大すると、金星のやや右上にかすかに白い点として見えるのが火星(だと思う)。何の装備もないのだから、写真としてはこれでよしとしないと。月の影の部分も丸く見えるほどで、写真にもそれが何とか写っている。やや風があって寒かったけれど、そのおかげで比較的空気も澄んでいたのだろうし、双眼鏡で見ると、火星と金星が視野に収まって見えたので、満足。




2015年2月14日土曜日

金星・火星・月の接近

 2月20日から21日の日没後、西の空で見られるとのこと。地球から見える方向が同じということに、どれほどの「意味」があるのかはともかく、珍しいことにはちがいないので(何かがいつになく同じところにかたまっているというのは、自分ではたと気づけば不審に思うだろう)、ぜひ見てみたい──ということで、カレンダーに登録。

 でも、本当にすごいのは、この星が金星で、この星が火星で……というのが特定できるということなんだと思う。こちらは何かの紹介記事を見て(今回はFlipboardでピックアップされた Sky & Telescope誌の記事)、何かの星図を確かめて(自分では Stellarium のお世話になっている)、その方向に見える明るい星を金星だ、火星だと思うわけだけれど、ときどき空を見ていたのでは、前に見たあの星と、今見ているこの星が同じ星だというのは、星座のような目立つパターンで認識できる恒星でもなければ、そう自明のことではないだろう。月の満ち欠けだって、何の知識もなく、何の気なしに見ていたら、周期的な現象だとは思わないし、実際今でも、そういう人はけっこう多そうだ(三日月形の月とか、半月形の月とか、満月形の月とか、何種類かの「月」があって、その日その日に見えるものがたまたま決まっているとか)。

 継続的に追跡していればこそわかることだとは思うが……概略でも星図を何日か分蓄積して、ぱらぱら漫画みたいなのを作っていればわかりやすいのだろうが、紙だっておいそれと手に入らなければ、そうそうできることではない。いかにしてそのことに気づき、そうと確認できたのかというのは、惑星を意識するたびに不思議に思う。夜空が暗かった頃は、惑星それぞれが個体識別できるほど、紛れもない特徴が見えていたのだろうか。


 今回のような出来事は、天体ショーとして興味深いだけでなく、天体現象を認識する人間の知識の蓄積・展開の妙をあらためて思い、さらには「知らないと見えないこと(百聞あっての一見)」があるというシンボルとしても、見るのがいいと思う。

2014年12月13日土曜日

それってネットの(スマホの)弊害?


 先日は「ニュース深読み」で「ながらスマホ」を取り上げたかと思うと、今度は「クローズアップ現代」で、読書かネットかという話。テレビも、私が属している本も、ネットのせいで旗色が悪いのは確かだけど、それでネガティブキャンペーン? テレビだって、そのおかげで人が本を読まなくなったと言われてたんじゃなかったっけ。

 「ながらスマホ」が悪いのは、たとえば公道を周りに注意しないで歩くことが悪いのであって、それはスマホに特有の悪ではない。スマホがない時代にも、周りを見ずに公道を通る人はたくさんいたし、今も、スマホを持たずに道路の邪魔をする人は相当にいる。これは公道を通るときは、ちゃんと周囲に注意が払える状態で通りましょうという、いつの時代にも言える話(ほんとにそうなってほしい)。スマホやネットの弊害を云々したいのなら、それじゃないと言えないことを持ってこないと。

 だからというわけか、ネット検索ばかりで読書しない人がまた増えたという話。しかも読書しない学生の小論文は、自分の意見がないんだとか。読書する人のほうができがよいとか。これも、メディアの使い方が上手か下手かという昔からある話で、本を読むからうまいのではなく、本でもネットでも上手に使えるからうまいということ(できた小論文が優れているとして)。「本も」使える人(ネットも使える)と、本を読まない(けどネットも大した使い方をしていない)人を比べて、本を読むほうがいいでしょ? というのはいかにもずるい。

 ネットがない時代だって、ちゃんと書ける奴もいれば、教科書・参考書丸写ししかしない奴もいれば、果ては他人のレポート丸写しの奴も(さらには他人にレポート書かせる奴も?)いたわけで、当時はみんながちゃんと書けていたのに、ネットのせいで力が落ちたというわけではないと思う(残念ながら実験はしていないが)。そんな日常的な光景を忘れてしまっているらしいのは、それもネットのせいで記憶力が悪くなったから?

 解説に呼ばれた立花隆が、これはネットの弊害の問題ではなく、メディアを使いこなせているかどうかの問題で、ネットには本にはない可能性があるという方向のことを言っているのに、でも本を読まないと困りますよねみたいな話に強引に持って行ってしまっている。そういう番組を作りたかったんだから、そうなるのはしかたないにしても、じゃあ、その前に問題をちゃんと立てておかないと(立花隆が呼ばれたのは、何万冊という厖大な蔵書があるからということらしいが、それだけの本を活用するには、Googleなみの検索能力が要るはずで、むしろ立花隆がネット検索的に本を使っているということを示しているのかもしれない、なんてね)。

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。
「御這入りなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
『草枕』第九節(これもぱらぱら「めくって」見つけた)

 その後二人は小説の読み方について議論したあげく、主人公の言う「非人情」な読み方を試すという話になっていく。いいねえ。ネットならもっとそんな読み方ができるし、それもまた「読み方」だ。それで「面白い」ことは出てくるし、逆にそうやって面白いことを見つけられないなら、本を読んだからといって見つかるのを当てにはできないだろう。

 本じゃなきゃできないことがあるように、ネットじゃなきゃできないこともある。ネットではできないこともあれば、本ではできないこともある(拙訳のジョンソン『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』(日経BP社)の「セレンディピティ」の章には、ネットではセレンディピティが得られないという批判に対するまっとうな答えがある──やっぱりそう思うんだと共感した)。

 ネットから入る人が多いのなら、ネットの可能性や落とし穴を教え、ちゃんとした使い方を教え、その先に、こんなメディアもあるよとネット以外のものも見せて可能性を広げるという方向を与えるべきだと思う。たったそれだけのことを、どうして、本かネットかという問題にしてしまうのだろう。結論がどうのこうのというより、問題の立て方の粗雑さのほうが気になる。それこそ、そんな短絡的な発想になるのも、ひょっとしてネットのせい? それとも、本を読ませなくなったテレビのせい?

 本があるところへネットが加わった。基本的には、それは豊かになったということだ。本の時代には本の豊かさを生かしきれなかったとしたら、テレビの時代にはテレビの豊かさを生かしきれなかったとしたら、ネットの時代にネットの豊かさを生かしきれないとしたら、そういうものを手にした人間のお粗末さということになるだろうが、まあ、そうならないように、新たなメディアができた中での旧いメディアの生きる道も見つけたい(というより、そうしないと暮らせない──とかくこの世は住みにくい)。

2014年12月5日金曜日

「インターステラー」を見た

 「コンタクト」では残る側だったマシュー・マコノヒーが今度は飛ぶほうだというので、これはぜひと思って見に行った。私にとっては「当たり」(人類の子孫のためと言いながら、掲げる旗が星条旗なのはどうかと思うが、どだいがアメリカ映画だし、NASAがやることなんだからしょうがないか)。結末にかけて不満がないわけではないけれど、あの終わりに持っていくには何かを作らなければならないし、現にないものを作るとなれば、無理もしないことには進まないし、その終わりは良かったと思う。

 それにしても、「コンタクト」がこの映画につながっているのは間違いなく、あの映画はやはり響くものが相当にあったんだなとあらためて思うし、マシュー・マコノヒーは「コンタクト」に出てよっぽど飛ぶほうをやりたかったのかな、などと思ったりもする。そういう「褒め方」は本作に対しては失礼なのかもしれないけれど、私にとってはやはり「コンタクト」なしには、この映画は見ることも、咀嚼し消化することもできないだろう。

 何はともあれ、DVDだかブルーレイだかが出たら何度か見て、あらためて、あああれはこういうことだったのかと思いたい。

 映画館を出たら、目の前のビルの谷間に満月間近の月が大きく出ていた。月より向こうの世界に出て行く映画だが、他の天体とこの大きさで向き合うのは、十分にSF的で、いつもは映画館に入る前と出るときの世の中の明るさの違いにちょっと違和感というか、それこそ落差を感じるのだが、今日は月がきれいに輝き始める頃具合になって、この映画帰りには、かえって喜ばしかった。

2014年11月18日火曜日

恐怖が判断を促進する?

 科学のニュースは解釈のほうが主/目玉になるものだけれど、とかく科学の成果の人間的意味はとり難い。

 日本の研究者が、恐怖のような感情は萎縮作用で判断力を鈍らせるという定説に対して、逆のことを示す結果を出したという(プレスリリース)。赤のモノクロによる蛇の写真と青のモノクロによる花の写真を見せて、色の判断はどちらが早いかという実験をすると、蛇のほうの「赤」が早く答えられたというもの。つまり、怖いものを見たときの「赤」という理性による判断のほうが、抑止されるどころか、高まっているということらしい。

 実験そのものはシンプルで、一貫した結果を出していて、うまく考えられているように思うが、でも本当にそういう意味なのだろうか。おそれ多くもこんなことを言おうという気になったのは、実はこの記事の冒頭に

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」といわれるように、理と情は対立するものと考えられています。

とあったことが大きい。私にとっては、何よりの「つかみ」だ。もっとも、せっかくの知・情・意の三すくみから、「理」と情の対立だけを取り出してそこに還元するのはもったいないとも思うし、何より、この記事からうかがえる「情が理を助ける」という含みにも危うさを感じる。科学(理)は情をさしおいてこそ科学なのに。

 きっかけはともかく、実験結果は、写真に対して、「蛇・赤」ととっさに(「怖い」以前に、反射的に)反応しているとも解釈できる。もちろん蛇に対して、たとえば「逃げる」という反応も反射的に起きるものだろうから、そのほうが早いというのは理解できるし、色を変えても一貫して蛇のほうが早いというのも、うなずける。ただそれは、恐怖の「感情」が促しているということなのだろうか。むしろ、反射的な危険回避行動(逃げろ)と一体になったものと言うべきではないのだろうか。ひとまず、とっさに危険回避して、後からじわっと「ああ怖かった」という情がわいてくる……のではないか。

 その怖いを自覚したら、「足がすくむ」のような抑制効果になることもある。ここで否定されているという「定説」はそちらのほうを言っているのであって、この実験が示したこととはすれ違っているような気がする。

 出典は知らないのだが、聞きおぼえの句に「情の極まるところ、理の極まるところなり」というのがある。これも、この句を使いたい人は「情をつくしてそれに従えば結局は理にかなった行動になる」というようなことを言いたくて、情をとことん高めた先に理もあると言いたいのだろうけれど、私はむしろ、「極まるところ」はさかのぼったほうにあると見て、理も情も根源は同じだけれど、そこから別の、場合によっては対立する方向に分化するというふうに考えたほうがいいような気がする。

 「何かやばいもの・逃げたほうがいいもの」(と意識してさえいないかもしれない危険回避の反射的反応)が根源で、そこからたとえば「これは蛇である」という理と、「怖い」という情が分かれる(さらには意識して「逃げろ」という意も)。理のほうを先へ進めれば、「これは実は危険な蛇ではない」といったことにもなるかもしれないし、情のほうを進めれば、「恐怖で身動きできない」状態というのが生まれるかもしれない。逆に、理と情が融和するところ(対立しないところ)は、そもそも理や情が存在する以前のところなのではないか。この記事の実験は、そこを見ているように思う。

 逆に「定説」のほうは、とっさの反応が間に合わなくて、理の部分で「あ、蛇だ」、情の部分で「怖い」と思ってしまったときに、意のままにならず「足がすくんで逃げられない」となってしまうといったところを見ているのではなかろうか。今回の説と定説のどちらが正しいかというより、両者は見ているところが違うということだろう。

 ひとまず、(本能的な)「回避すべき危険」を察知したときの反応のほうが早いと解すれば、そこまでは大いに納得できる。その反応こそが情だと科学的に定義するというのなら(それで科学者間で合意がとれるなら)、科学者のいう情はそういうものだと理解するしかないが、だからといって、それ漱石が言っている情だという保証はないし、私はそれは別物だと思う。

 もっと気がかりなのは、やはり、科学の内容が、人間的な意味のほうを前に出して伝えられるという傾向。伝えなければいけないという「空気」や、そうなると、人間的な意味がつかないと伝わりにくいという事情はわからないことはないが、そんな事情にひっぱられて浮足だってしまっては、伝えることの値打ちが下がってしまう。最初から人間的な意味をねらうのであればなおさら、実験の構想そのものに紛れ込む偏りのチェックが必要になる。

 そして実験は、やってみて、公表して、つっこみが入って、それをクリアする工夫が重ねられて、一連の実験の歴史(場合によっては伝説?)になる。だから、伝えられる側も、即決的に人間的な意味や価値を求めないとか、最後に位置する人だけ見ないとか、そういうふうに臨まないと、ということで、悪しからず。