2015年2月20日金曜日

2015年2月20日日没後の西の空

 月、金星、火星の接近。明日は曇りそうなので、次善の今日、眺めて撮ってみた(iPad)。


左上が金星で、右下が月(白い線は、上の階のベランダの縁)。拡大すると、金星のやや右上にかすかに白い点として見えるのが火星(だと思う)。何の装備もないのだから、写真としてはこれでよしとしないと。月の影の部分も丸く見えるほどで、写真にもそれが何とか写っている。やや風があって寒かったけれど、そのおかげで比較的空気も澄んでいたのだろうし、双眼鏡で見ると、火星と金星が視野に収まって見えたので、満足。




2015年2月14日土曜日

金星・火星・月の接近

 2月20日から21日の日没後、西の空で見られるとのこと。地球から見える方向が同じということに、どれほどの「意味」があるのかはともかく、珍しいことにはちがいないので(何かがいつになく同じところにかたまっているというのは、自分ではたと気づけば不審に思うだろう)、ぜひ見てみたい──ということで、カレンダーに登録。

 でも、本当にすごいのは、この星が金星で、この星が火星で……というのが特定できるということなんだと思う。こちらは何かの紹介記事を見て(今回はFlipboardでピックアップされた Sky & Telescope誌の記事)、何かの星図を確かめて(自分では Stellarium のお世話になっている)、その方向に見える明るい星を金星だ、火星だと思うわけだけれど、ときどき空を見ていたのでは、前に見たあの星と、今見ているこの星が同じ星だというのは、星座のような目立つパターンで認識できる恒星でもなければ、そう自明のことではないだろう。月の満ち欠けだって、何の知識もなく、何の気なしに見ていたら、周期的な現象だとは思わないし、実際今でも、そういう人はけっこう多そうだ(三日月形の月とか、半月形の月とか、満月形の月とか、何種類かの「月」があって、その日その日に見えるものがたまたま決まっているとか)。

 継続的に追跡していればこそわかることだとは思うが……概略でも星図を何日か分蓄積して、ぱらぱら漫画みたいなのを作っていればわかりやすいのだろうが、紙だっておいそれと手に入らなければ、そうそうできることではない。いかにしてそのことに気づき、そうと確認できたのかというのは、惑星を意識するたびに不思議に思う。夜空が暗かった頃は、惑星それぞれが個体識別できるほど、紛れもない特徴が見えていたのだろうか。


 今回のような出来事は、天体ショーとして興味深いだけでなく、天体現象を認識する人間の知識の蓄積・展開の妙をあらためて思い、さらには「知らないと見えないこと(百聞あっての一見)」があるというシンボルとしても、見るのがいいと思う。

2014年12月13日土曜日

それってネットの(スマホの)弊害?


 先日は「ニュース深読み」で「ながらスマホ」を取り上げたかと思うと、今度は「クローズアップ現代」で、読書かネットかという話。テレビも、私が属している本も、ネットのせいで旗色が悪いのは確かだけど、それでネガティブキャンペーン? テレビだって、そのおかげで人が本を読まなくなったと言われてたんじゃなかったっけ。

 「ながらスマホ」が悪いのは、たとえば公道を周りに注意しないで歩くことが悪いのであって、それはスマホに特有の悪ではない。スマホがない時代にも、周りを見ずに公道を通る人はたくさんいたし、今も、スマホを持たずに道路の邪魔をする人は相当にいる。これは公道を通るときは、ちゃんと周囲に注意が払える状態で通りましょうという、いつの時代にも言える話(ほんとにそうなってほしい)。スマホやネットの弊害を云々したいのなら、それじゃないと言えないことを持ってこないと。

 だからというわけか、ネット検索ばかりで読書しない人がまた増えたという話。しかも読書しない学生の小論文は、自分の意見がないんだとか。読書する人のほうができがよいとか。これも、メディアの使い方が上手か下手かという昔からある話で、本を読むからうまいのではなく、本でもネットでも上手に使えるからうまいということ(できた小論文が優れているとして)。「本も」使える人(ネットも使える)と、本を読まない(けどネットも大した使い方をしていない)人を比べて、本を読むほうがいいでしょ? というのはいかにもずるい。

 ネットがない時代だって、ちゃんと書ける奴もいれば、教科書・参考書丸写ししかしない奴もいれば、果ては他人のレポート丸写しの奴も(さらには他人にレポート書かせる奴も?)いたわけで、当時はみんながちゃんと書けていたのに、ネットのせいで力が落ちたというわけではないと思う(残念ながら実験はしていないが)。そんな日常的な光景を忘れてしまっているらしいのは、それもネットのせいで記憶力が悪くなったから?

 解説に呼ばれた立花隆が、これはネットの弊害の問題ではなく、メディアを使いこなせているかどうかの問題で、ネットには本にはない可能性があるという方向のことを言っているのに、でも本を読まないと困りますよねみたいな話に強引に持って行ってしまっている。そういう番組を作りたかったんだから、そうなるのはしかたないにしても、じゃあ、その前に問題をちゃんと立てておかないと(立花隆が呼ばれたのは、何万冊という厖大な蔵書があるからということらしいが、それだけの本を活用するには、Googleなみの検索能力が要るはずで、むしろ立花隆がネット検索的に本を使っているということを示しているのかもしれない、なんてね)。

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几に縛りつけた、書物の一冊を抽いて読んでいた。
「御這入りなさい。ちっとも構いません」
女は遠慮する景色もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟の中から、恰好のいい頸の色が、あざやかに、抽き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
『草枕』第九節(これもぱらぱら「めくって」見つけた)

 その後二人は小説の読み方について議論したあげく、主人公の言う「非人情」な読み方を試すという話になっていく。いいねえ。ネットならもっとそんな読み方ができるし、それもまた「読み方」だ。それで「面白い」ことは出てくるし、逆にそうやって面白いことを見つけられないなら、本を読んだからといって見つかるのを当てにはできないだろう。

 本じゃなきゃできないことがあるように、ネットじゃなきゃできないこともある。ネットではできないこともあれば、本ではできないこともある(拙訳のジョンソン『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』(日経BP社)の「セレンディピティ」の章には、ネットではセレンディピティが得られないという批判に対するまっとうな答えがある──やっぱりそう思うんだと共感した)。

 ネットから入る人が多いのなら、ネットの可能性や落とし穴を教え、ちゃんとした使い方を教え、その先に、こんなメディアもあるよとネット以外のものも見せて可能性を広げるという方向を与えるべきだと思う。たったそれだけのことを、どうして、本かネットかという問題にしてしまうのだろう。結論がどうのこうのというより、問題の立て方の粗雑さのほうが気になる。それこそ、そんな短絡的な発想になるのも、ひょっとしてネットのせい? それとも、本を読ませなくなったテレビのせい?

 本があるところへネットが加わった。基本的には、それは豊かになったということだ。本の時代には本の豊かさを生かしきれなかったとしたら、テレビの時代にはテレビの豊かさを生かしきれなかったとしたら、ネットの時代にネットの豊かさを生かしきれないとしたら、そういうものを手にした人間のお粗末さということになるだろうが、まあ、そうならないように、新たなメディアができた中での旧いメディアの生きる道も見つけたい(というより、そうしないと暮らせない──とかくこの世は住みにくい)。

2014年12月5日金曜日

「インターステラー」を見た

 「コンタクト」では残る側だったマシュー・マコノヒーが今度は飛ぶほうだというので、これはぜひと思って見に行った。私にとっては「当たり」(人類の子孫のためと言いながら、掲げる旗が星条旗なのはどうかと思うが、どだいがアメリカ映画だし、NASAがやることなんだからしょうがないか)。結末にかけて不満がないわけではないけれど、あの終わりに持っていくには何かを作らなければならないし、現にないものを作るとなれば、無理もしないことには進まないし、その終わりは良かったと思う。

 それにしても、「コンタクト」がこの映画につながっているのは間違いなく、あの映画はやはり響くものが相当にあったんだなとあらためて思うし、マシュー・マコノヒーは「コンタクト」に出てよっぽど飛ぶほうをやりたかったのかな、などと思ったりもする。そういう「褒め方」は本作に対しては失礼なのかもしれないけれど、私にとってはやはり「コンタクト」なしには、この映画は見ることも、咀嚼し消化することもできないだろう。

 何はともあれ、DVDだかブルーレイだかが出たら何度か見て、あらためて、あああれはこういうことだったのかと思いたい。

 映画館を出たら、目の前のビルの谷間に満月間近の月が大きく出ていた。月より向こうの世界に出て行く映画だが、他の天体とこの大きさで向き合うのは、十分にSF的で、いつもは映画館に入る前と出るときの世の中の明るさの違いにちょっと違和感というか、それこそ落差を感じるのだが、今日は月がきれいに輝き始める頃具合になって、この映画帰りには、かえって喜ばしかった。

2014年11月18日火曜日

恐怖が判断を促進する?

 科学のニュースは解釈のほうが主/目玉になるものだけれど、とかく科学の成果の人間的意味はとり難い。

 日本の研究者が、恐怖のような感情は萎縮作用で判断力を鈍らせるという定説に対して、逆のことを示す結果を出したという(プレスリリース)。赤のモノクロによる蛇の写真と青のモノクロによる花の写真を見せて、色の判断はどちらが早いかという実験をすると、蛇のほうの「赤」が早く答えられたというもの。つまり、怖いものを見たときの「赤」という理性による判断のほうが、抑止されるどころか、高まっているということらしい。

 実験そのものはシンプルで、一貫した結果を出していて、うまく考えられているように思うが、でも本当にそういう意味なのだろうか。おそれ多くもこんなことを言おうという気になったのは、実はこの記事の冒頭に

「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される」といわれるように、理と情は対立するものと考えられています。

とあったことが大きい。私にとっては、何よりの「つかみ」だ。もっとも、せっかくの知・情・意の三すくみから、「理」と情の対立だけを取り出してそこに還元するのはもったいないとも思うし、何より、この記事からうかがえる「情が理を助ける」という含みにも危うさを感じる。科学(理)は情をさしおいてこそ科学なのに。

 きっかけはともかく、実験結果は、写真に対して、「蛇・赤」ととっさに(「怖い」以前に、反射的に)反応しているとも解釈できる。もちろん蛇に対して、たとえば「逃げる」という反応も反射的に起きるものだろうから、そのほうが早いというのは理解できるし、色を変えても一貫して蛇のほうが早いというのも、うなずける。ただそれは、恐怖の「感情」が促しているということなのだろうか。むしろ、反射的な危険回避行動(逃げろ)と一体になったものと言うべきではないのだろうか。ひとまず、とっさに危険回避して、後からじわっと「ああ怖かった」という情がわいてくる……のではないか。

 その怖いを自覚したら、「足がすくむ」のような抑制効果になることもある。ここで否定されているという「定説」はそちらのほうを言っているのであって、この実験が示したこととはすれ違っているような気がする。

 出典は知らないのだが、聞きおぼえの句に「情の極まるところ、理の極まるところなり」というのがある。これも、この句を使いたい人は「情をつくしてそれに従えば結局は理にかなった行動になる」というようなことを言いたくて、情をとことん高めた先に理もあると言いたいのだろうけれど、私はむしろ、「極まるところ」はさかのぼったほうにあると見て、理も情も根源は同じだけれど、そこから別の、場合によっては対立する方向に分化するというふうに考えたほうがいいような気がする。

 「何かやばいもの・逃げたほうがいいもの」(と意識してさえいないかもしれない危険回避の反射的反応)が根源で、そこからたとえば「これは蛇である」という理と、「怖い」という情が分かれる(さらには意識して「逃げろ」という意も)。理のほうを先へ進めれば、「これは実は危険な蛇ではない」といったことにもなるかもしれないし、情のほうを進めれば、「恐怖で身動きできない」状態というのが生まれるかもしれない。逆に、理と情が融和するところ(対立しないところ)は、そもそも理や情が存在する以前のところなのではないか。この記事の実験は、そこを見ているように思う。

 逆に「定説」のほうは、とっさの反応が間に合わなくて、理の部分で「あ、蛇だ」、情の部分で「怖い」と思ってしまったときに、意のままにならず「足がすくんで逃げられない」となってしまうといったところを見ているのではなかろうか。今回の説と定説のどちらが正しいかというより、両者は見ているところが違うということだろう。

 ひとまず、(本能的な)「回避すべき危険」を察知したときの反応のほうが早いと解すれば、そこまでは大いに納得できる。その反応こそが情だと科学的に定義するというのなら(それで科学者間で合意がとれるなら)、科学者のいう情はそういうものだと理解するしかないが、だからといって、それ漱石が言っている情だという保証はないし、私はそれは別物だと思う。

 もっと気がかりなのは、やはり、科学の内容が、人間的な意味のほうを前に出して伝えられるという傾向。伝えなければいけないという「空気」や、そうなると、人間的な意味がつかないと伝わりにくいという事情はわからないことはないが、そんな事情にひっぱられて浮足だってしまっては、伝えることの値打ちが下がってしまう。最初から人間的な意味をねらうのであればなおさら、実験の構想そのものに紛れ込む偏りのチェックが必要になる。

 そして実験は、やってみて、公表して、つっこみが入って、それをクリアする工夫が重ねられて、一連の実験の歴史(場合によっては伝説?)になる。だから、伝えられる側も、即決的に人間的な意味や価値を求めないとか、最後に位置する人だけ見ないとか、そういうふうに臨まないと、ということで、悪しからず。


2014年10月9日木曜日

憂鬱な季節

 まだ終わらないノーベル賞受賞関連ニュースを横目で見ながらこう考えた。残念ながら私はこのシーズンには憂鬱になる。(科)学を(科)学とは関係のない価値で称揚することに毎度うんざりするからだ。

 業績が評価されることは何にせようれしい。だから受賞者個人に祝意を表すことにやぶさかではない。それはよござんした。おめでとうございます。うれしいのは受賞者個人、その周辺の人々、それだけで十分だ。そこに、これで日本の受賞者が何人になったの、日本の研究が世界的であることが証明されたの、受賞者がどれだけ「いい話」の持ち主であるかだのの話をねじ込むから憂鬱になってくる。ニュース方面だけのこととはいえ、何日かかけて国をあげて祝賀しようというのなら、その祝賀のしかたでいいのかと思う。

 今年の場合、特許もあって、経済的にはすでに評価がされていたから、必ずしも評価が遅いとも言えないが、それにしても、成果そのものは二〇年も前のもの。それをもって日本の科学力を云々するという話ではなく、それを言いたいなら、受賞対象の成果があってから今までのあいだに何がどうなったかを問うべきだろう(科学離れ、理科離れが言われている状況に変わりはない。「日本人」受賞者の中には、日本を出てこそ成果をあげた人、成果をあげても日本では研究を続けられなかった人も含まれているという点も、「日本の力」の冷静な評価については無視できない)。

「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが悪るくなりゃ、切ってしまえば済むから」
この……者は胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風の臭いも知らぬ。現代文明の弊をも見認めぬ。……あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。(『草枕』第十三節)

 業界、あるいは専門家どうしはともかく、日本人一般として国をあげてめでたがるその理由が、ノーベル賞をとったからということなのだとしたら、つまりノーベル賞をとったからその研究がすごかったのだと思うのだとしたら(「こんなすごい人がいたんだと初めて知りました」──ニュースが伝える地元の人の感想にそんなのがあった)、日本人は日本人の研究成果を自らは評価できず、「世界的」な権威が認めてくれて初めてすごいと思えるという、これもまた、むしろお粗末な現実を指し示しているのだろう。本当に必要なのは、漱石の言葉やたとえはともかく、「自己の胃袋が一つあるか二つあるか」の意図するところを自ら弁じうるように、人々が自分の生活の向こうにある科学を弁じうる風土ではないか。

 ノーベル賞が「人類のために最大たる貢献をした人々に」与えられるものである以上、人間の都合に左右されるものにならざるをえない。知識そのものも人類への貢献だろうから、とくに物理学賞の場合は、直接に暮らしを良くするようなものでなくても受賞対象になることも多いが、今年はいつにも増して、生活を便利にする発明に目が行っているようだ(何年か前の物理学賞受賞者の先生が、今年の受賞について、「実生活に役立つ発明で受賞できてうらやましい」とおっしゃったとも伝えられる。もちろん社交辞令だろうが、科学者本人からそういう感想が出ることを、これまた「いい話」であるかのように伝えられるところがいやだ。もっとも、実生活に役立つ研究だから、研究環境は素粒子物理学よりもますます整えてもらえるんだろうなという本気のうらやましいと、そういう状況に対する皮肉だったりするのかもしれないが──これはあくまで勘ぐり)。

 「実生活に役立つ」は経済的な意義ではあっても、学術研究としての意義とは別ものだ。利用するのは人の都合。人類の貢献のために利用し、経済的効用をあげるのは人間世界にとっては喜ばしいことだろう。それに賞を出すのもけっこう。でもそれによって、科学の価値はそこにはないことが見失われるのだとしたら、科学の側からすると、むしろ迷惑かもしれない。だから私はノーベル賞が好きではない(もらう可能性もないのに、(科)学者ですらないのに、「よう言うわ」と自分でも思うけれど)。その点、イグノーベル賞はおもしろみのみが評価対象になっていて、役に立つかどうかは考えていないように見えるところがいい(研究者本人の意図はまた別だろうが──それにしても、こちらにも「実はこんなふうに役に立つ」みたいな報道のしかたが出て来たりして、せっかくの値打ちをなくす方向で持ち上げられることもあるようだ)。

 経済的・功利的な価値があるものだけが研究に値するかのような流れはむしろ強くなっていないか。おめでたい記者会見の席にあの話を持ち出して、ものすごいアウェーになった記者がいたが(いかにも出し方が下手だったのは確かだけれど)、今年の日本の科学界で「最大」のあの事件は、「日本の水準」が目先の利益でしか測られていないことの象徴ではなかったか。研究者の未熟のせいにしてすませるような話ではなく(未熟のせいにしたのもノーベル賞受賞者だったのは皮肉としかいいようがない)、研究の価値をどこに見いだし、どう評価するかという、システムや風土にかかわる話だったはずなのに、あのときはノーベル賞級と先走りしちゃったけど今度は本物のノーベル賞だとばかりに、また(今度は正式に)もてはやす。

 科学の科学としての価値は、人間の暮らしやら自尊心やらの人間の都合とは関係なく、何かが何かとしてわかるところにある(それを「美しい」と言ってもよいし、だからこそ漱石が芸術について言う「非人情」にも通じると思う)。科学の価値として青色LEDがすごいのは、青色LEDが青色を発する理屈や仕組み、それが実現する物質の組合せがわかるところにあるのであって、青色LEDができたら便利だからではない。こちらを評価するのは、経済的な価値観であって、科学的な価値とは別の話だ(青色LEDを原理を知りたくて研究するのと、青色LEDがあれば便利だからそれを作ろうと研究するのと、どちらが上というのでもない。経済的価値などどうでもいいというのでもない。ただただ、「人間社会的な利便を求めることを科学だと思っていては、科学は得られない」ということ)。

 研究環境が悪いから、研究費が足りないから、科学技術立国のためにはもっと厚く手当しないとという話も出てくるのだろう。でも、科学立国を唱える指導者たちは、「日本人は優秀だから、研究費や環境なんかなくても世界的な成果を出せるはずだ、成果を出せば、それで金も人も集まってくるだろうし、日本の力を見せた功績には報いますよ」とでも思っているんじゃないかと思えてしまうところもある(受賞を海外出張中に知らされた先生は、帰りはビジネスクラスにしていいと勤務先に言われたとか。逆に、別の受賞者の先生が、特許権料を大学に寄付していたという話もあったが、それだって、成果で研究費を稼ぎなさいという風土の表れだとすれば、「いい話」ですむことではない)。

 それに、世間的にも、苦労して成果をあげたという話のほうが受けるのかもしれない。

 それはともかく、研究費も好条件も、すでに成果があがっている人のところへ行きがちだというところを何とかしないと、ノーベル賞をとった研究者や研究室や研究分野に(つまりすでに成果が出ているところに)集まって、そこでさらに目立つ成果を出すことをせっつかれはしても、未知数の(お望みなら、だから次に賞を取れるかもしれない)ところに対しては、相変わらず薄いということになりそうという危惧もある。そういう研究であれば、「世界」で評価してもらって価値があることを証明できたら、こちらも評価しましょうということか? 結局、何よりかにより、いちばん必要な「インフラ」あるいは環境は、それぞれが自分で科学を科学として弁じる風土だと思う。

 なんてことを、この何十年、毎年(あるいは日本人が受賞するたびに)思っている(朝永振一郎先生か、せいぜ川端康成先生あたりまでは、おお日本人がと素直に喜べたのだが──ええ、ええ、今はひねくれていますとも)。要するに、受賞者はノーベル賞に値するほどの成果をあげたことがえらいのであって、ノーベル賞をもらったことがえらいのではない。その違いをあたりまえに理解した土台に立って成果をたたえる風土こそが、土壌のしっかりした「科学技術立国」に必要なものだろう。それがあたりまえにならないあいだは、毎年この時期は空騒ぎに憂鬱になるしかない……たかだか数十人の科学史の受講者を納得させることもできないのだから、その非力やもどかしさも合わせて。

 受賞者の先生方は、「好きなことを研究しろ」とおっしゃっている。もちろん、そうすればノーベル賞が取れるという意味ではない。ノーベル賞を(あるいはそういう目に見えやすい評価を)気にして仕事を選ぶなとおっしゃっているのだ(と思いたい)。

 今夜は文学賞の発表とか。人を楽しませる成果で受賞するわけですね。もちろん受賞者個人に対しては何のうらみも悪意もない(日本人候補者の作品は何十年か前にいくつか読んで、おもしろい小説だと思ったし、こういう文体もいいなと思った)。それが誰であれ、あらかじめおめでとうございます。これで物理学賞関連ニュースは終わりかな。それにしても、世の中に絶えてノーベル賞のなかりせば、秋の心はのどけからまし──またしてもよう言うわでした。

2014年8月30日土曜日

ハローキティは猫ではない

という風説についての記事を見た。何のことかと思えば、マグリットの“Ceci n’est pas une pipe”だった。最初は「キティは猫ではない」というのは、このマグリット風の洒落かと思って、その洒落がわからないという話かと思ったのだが……

余もこれから逢う人物を……ことごとく大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。もっとも画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。……画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。……間三尺も隔てていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。(『草枕』一)

私はとっさに、キティが猫であることにこだわることが、「人事葛藤の詮議立て」だと思ったのだけれど、やはりサンリオのほうが、無邪気(それもまた「非人情」の一種?)に楽しんでいるファンに、よけいなことを言ったということになるのかしらん。言わなきゃ猫かどうかの詮議立てもなかったのだろうから。むしろ、サンリオの身もふたもない見解に驚いてみせたほうが洒落になっている。

ただ、「あれは猫か」と正面切って聞かれれば、(科学的には)猫ではないと答えるしかないという面もある。そういう正しさが人々の夢を壊すというよくあるパターンの話なら、それはそれで注文をつけたくもなるけれど、今回は聞かれもしないのに訂正を入れたところが減点ということか(結局、「猫の擬人化」という、もっと身もふたもない事実を公式見解として表明せざるをえなくなったわけだし)。この話が、実はキティちゃんの絵でも着ぐるみでも、どこかわかりにくいところに、「これは猫ではない」と書き込まれていたことが判明したということならよかったのに。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。(同前)

……そういえば、今年もまた8月が終わるんだ。